たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その44 俺たちに明日はない

 何不自由なく暮らしていた美女が、女性では勃たない銀行強盗の恋人になる。

 

 『俺たちに明日はない』は1967年の映画。監督はアーサー・ペン、脚本はデヴィッド・ニューマンロバート・ベントン。主演はウォーレン・ベイティフェイ・ダナウェイアカデミー賞は二部門で受賞。

 ちなみに、ウォーレン・ベイティは製作でもある。ついでに言えば、ウォーレン・ベイティの姉は『アパートの鍵貸します』のシャーリー・マクレーン

 

 『俺たちに明日はない』はロードムービーだ。『怒りの葡萄』と同じく、主人公のボニーとクライドには寄る辺がない。彼らは盗んだ車で、仲間を拾ったり捨てたりしながら、追ったり追われたりしながらふらふらふらふらとさまよう。

 ただ、ボニーとクライドは住んでいた家を追い出されたわけではない。自ら捨てたのだ。銀行強盗が俺の商売だ!などと述べて、実際に銀行強盗にチャレンジしていく。素人だから始めのうちは失敗もするが、殺人の実績は積み重なっていく。徐々に強盗の腕も上げていくが、それは死への旅路にすぎない。

 社会に定位置を見つけるというのは必ずしも良いことばかりではない。安心感があるといえば聞こえはいいが、それは束縛でもある。社会に生きる以上、明文化されているいないに関わらず、様々なルールを守っていかなければならない。

 ボニーとクライドは社会からの離脱に快楽を見出した人間たちなのだ。二人を知恵の実を食べたアダムとイブになぞらえることもできる。知恵の実を食べてエデンの園を追放されるか、食べずに楽園に留まるか、どちらがいいですかという話だ。

 ボニーとクライドはただの犯罪者ではなく、彼らが生きた不景気の時代において、ヒーローとしての側面も持っていた。閉塞感のある時代に風穴を開けるような存在だ。映画の中では、銀行強盗の場に居合わせた老人が「良い連中だ。葬式には花を供えてやる。」と述べるシーンもある。

 

 今ではこういう映画は珍しくない。が、当時のハリウッドでは、悪をヒーローとして描くことは許されることではなかった。それだけではない。撃たれた瞬間を描写したり、ヒロインが全裸で登場したり……そうしたことも許されなかった。当時のハリウッドが自主規制でがんじがらめだったことは、『お熱いのがお好き』を見ると分かりやすい。ギャングたちが虐殺される瞬間は画面に映されないし、主人公とマリリン・モンローのキスシーンはジャック・レモンのダンスシーンと交互に映す形で演出された(3秒以上唇をくっつけていてはいけなかったのだ)。

 ハリウッドがこうした自主規制をかけている時、テレビはケネディが射殺される瞬間を報じ、フランス映画はおっぱいを丸出しにしていた。客足は遠のき、ハリウッドは窮地に追い込まれていた。

 そんな時に現れたのが『俺たちに明日はない』だった。日本を含む世界の映画にオマージュを捧げながら、ハリウッドの掟破りを連発。一部に強い反発はありながらも、『俺たちに明日はない』は高い評価を得る。こうしてアメリカン・ニューシネマの幕は切って落とされた。まさに、『俺たちに明日はない』という映画自体が、ボニーとクライドのような存在だったのだ。

 といった感じの話が以下の動画で聞ける。『俺たちに明日はない』を観た後は必見。


www.youtube.com


www.youtube.com

 こういう濃い話を読んだり聞いたりしたいのだが、ネットの海ですぐに見つかるのは町山智浩氏の動画くらいしかない。どうしたもんか。

 

 ついでに、VOGUEもファッションの観点からの『俺たちに明日はない』の革命性について書いている。

www.vogue.co.jp

 どうやら、ベレー帽、スカーフ、Vネックニット、長すぎず短すぎずのミディスカートといったアイテムがポイントのよう。男性の真似ではない、女性らしい力強さが表現されている。ボニー・パーカーとフェイ・ダナウェイによって示された美学は、ファッション界に転機をもたらした。とかなんとか、そんな感じの話だと思われますです。

 ファッションが何を表現しているかなんてのは考えたことがなかったし興味もなかったが、『俺たちに明日はない』を観た後だと奥深さを実感できる。言われてみれば、たしかに乃木坂46が上記のような格好をしているイメージはあまりない。スカートなんて中が見えなければみんな一緒、ではなかったのだ!

 

 映画を通して時代が見える。世界が見える。いや~、映画って本当に良いもんですねえ。