たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その83 雨に唄えば

 サイレント時代のハリウッドスターがトーキーによって凋落の危機に陥る。

 

 『雨に唄えば』は1952年の映画。監督はジーン・ケリースタンリー・ドーネン、脚本はアドルフ・グリーンとベティ・カムデン。主演はジーン・ケリーデビー・レイノルズ

 

 『雨に唄えば』といえば、ジーン・ケリーが雨の中で踊るシーン。ミュージカル映画史上に残る名場面だし、一度見れば一生記憶に残るであろう。どしゃぶりの雨が降る町も、心持ち一つで楽しい遊び場になる。

 ミュージカル映画において歌とダンスが重要なのは言うまでもない。この二つのスキルは、パフォーマーの才能に大きく依存する。そして、ダンス方面では、1930年代にフレッド・アステアという不世出の天才が現れる。他のどんなダンサーもフレッド・アステアには敵わない。(これには異論もあろうが、話の都合上ここではそういうことにしておく。)フレッド・アステア以降のミュージカル映画は、いかにしてフレッド・アステアという高い壁を超えるのか?という問題と向き合わなければならなくなった。

 その問いへの答えの一つが舞台装置の活用だ。ダンスのテクニックではなく、アイデアで勝負をする。ダンスはエンターテインメント。観客を楽しませた方の勝ちだ。観客を楽しませるのにテクニックは必ずしも不可欠ではない。

 なぜ『雨に唄えば』を歌い踊るシーンが素晴らしいのか? それはどしゃぶりの雨の中で踊っているからにほかならない。

「ひえ……スーツをこんなに濡らしたら大変だよ~」

「子供の頃、こんなふうに水溜りで遊んだよなあ……」

 フレッド・アステアの美しいダンスよりも、雨の中で踊るジーン・ケリーの方が庶民の心には様々な感情を湧き起こす。(言うまでもなく、フレッド・アステアのダンスにはかけがえのない魅力がある。)

 このシーン以外にも、ドナルド・オコナーの"Make'em Laugh"を始めとして、振り付けに舞台装置を巧みに取り入れたダンスが『雨に唄えば』には多い。ダンスの名手たちが飛び道具を使うのだから、そりゃあ見ていて飽きない。

 工夫をすれば才能の壁は超えられるのである。

 

 それはそれとして、なぜジーン・ケリーの情景において、雨が降っていたのだろうか? ここでいう「雨」とはなんなのであろうか? それは破壊的イノベーションだ。映画業界の構造を根本からひっくり返す技術革新、トーキー(発声映画)の登場である。

 主人公のドンは、ジーン・ヘイゲン演じるリナ・ラモントとのゴールデンコンビで人気を博すハリウッドの大スターだ。彼らのもとに「世界初のトーキー『ジャズ・シンガー』大ヒット」の一報が届く。制作中の映画は、急遽トーキーとして撮ることになる。

 慣れないトーキーへの挑戦の結果は、惨憺たるものだった。映像トラブルもあり、試写会の会場は爆笑の渦に飲み込まれる。これを見たドンは、己の地位が危うい状況にあることを悟る。

 サイレントとトーキーでは役者に求められるものが異なる。この変化に適応できない役者は淘汰されてしまう。『雨に唄えば』の作劇上、念頭に置かれていたのはジョン・ギルバートの存在だ。彼はサイレント時代のスターだったが、トーキーの時代になると仕事は激減し、アルコール中毒で早逝する。技術的イノベーションは、既得権益を粉々に打ち壊す可能性を秘めている。1927年以降のハリウッドではそれが実際に起ったのだ。

 映画がこのまま公開されれば、ドンの名声は瓦解するだろう。ジョン・ギルバートのように。この危機的状況に対して、友人のコズモは、ドンのボードビルの経験を活かしたミュージカル映画に作品を作り変えることを提案する。

 しかし、ドンはそれでいいが、相方のリナは歌も踊りもてんでダメだ。今さらリナを下ろすことはできない。どうすれば?

 困難にぶち当たったとき、我々はデカルトの名言を思い出さねばならない。「困難は分割せよ」だ。リナが踊れないなら、踊らせなければいい。リナが歌えないなら、声を吹き替えればいい。お誂え向きに、ドンの恋人キャシーは歌える女優志望だ。

 このアイデアに興奮したドンが、帰り道に歌うのが『雨に唄えば』なのだ。破壊的イノベーションによる危機の中でも、その先に待ち受ける明るい未来を想像すれば乗り越えられる。そういう歌なのである。

 しかし、この物語において、とてもじゃないが呑気に歌っていられない人間がいる。リナだ。キャシーの吹き替えによって次の映画は乗り切れたとしても、さらに次からはリナに役が回ってこないことは容易に想定される。なんせ彼女の地声は林家パー子なのだ。ここで彼女が取るべき対策は、キャシーによる吹き替えを秘密にすること以外にない。彼女はキャシーを自分専属の声優にしようと画策するのである。それはリナに取って代わろうとしていたキャシーの将来を摘み取るものだった。

 客観的に見れば多くの人がリナを悪役だと思うだろうが、当事者になればほとんどの人がリナと同じような振る舞いをするはずだ。好きな男を突然現れた女に奪われそうになればそいつをいじめるし、ライドシェアをタクシー業界は叩き潰そうとするのである。

 結局、ドンたちの謀略により、リナはキャシーに敗北することになる。多くの人にとってハッピーエンドだが、リナにとってはバッドエンドだ。破壊的イノベーションに自分の権益が揺るがされそうになったとき、バッドエンドを迎えたくないのであれば(そしてみんなのハッピーを願うのであれば)、リナではなくドンになるしかない。雨に歌わなくてはならないのだ。

 普通、こういうテーマで映画を撮ろうとすると、シリアスになりがちだ。『欲望という名の電車』『サンセット大通り』『イヴの総て』……どれも同じものを描いているが、テイストは重々しい。しかも、どれも旧勢力に同情的だ。アマゾンのせいで潰れる本屋、デジカメのせいで潰れる写真屋、スーパーマーケットのせいで潰れる商店街……我々はともすれば旧勢力に同情しがちである。デイミアン・チャゼルの『バビロン』も同じ罠(?)にはまっている。

 ところが、『雨に唄えば』からは、そんな重厚感は一切感じられない。底抜けの明るさの裏には冷徹な視点がある。重いものを、軽やかに見せる。ダンサーであるジーン・ケリースタンリー・ドーネンの撮った映画は、まるでダンスのような映画だった。