たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その42 博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか

 絶対に始動してはいけない爆撃作戦が始動してしまう。

 

 『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』は1964年の映画。監督はスタンリー・キューブリック。主演はピーター・セラーズピーター・セラーズは一人三役を務めているうえに、ストレンジラブ博士としてのラストの怪演は必見。

元祖?長文タイトル

 まず注目すべきがタイトルである。

博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』

(原題"Dr.Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb")

 長い。ラノベかAVかってくらい長い。『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』よりもだいぶ長い。

 しかも、略称になるであろう「ストレンジラブ博士」とでも訳すべきところを、「博士の異常な愛情」と訳しているところがおしゃれ。今風に言うとおしゃである。韻を踏んでいるからつい口に出して言いたくなる。逆にあえて『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』と略さずに言って他人との差を見せつけたくなる。見事な邦題である。

 しかも、「博士の異常な愛情」に続く部分も「または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」という、ただの説明に終わらず興味を喚起してやまない内容になっている。ただの内容説明に終始しているタイトルとは一線を画している。まず問題提起をしている。それもクローズドクエスチョンではなくオープンクエスチョン。それに加えて「水爆」と「愛」というイメージ喚起力が高く、かつ、普通は繋がらない言葉を結合させている。

 内容を直接的に説明するタイトルは、馬鹿をターゲットにした過度に商業主義的な芸術性を無視したものとして侮られがちだ(?)。だが、『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』を見ると、結局は名付け親の力量次第だということが分かる。内容説明タイトルの理想形がここにある。

究極の爆発オチ

 『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』は究極の爆発オチ映画でもある。

 爆発オチ、すなわち映画の結末が爆発で締めくくられることだ。爆発オチの質は、どれくらい派手に爆発するかで決まる。つまり破壊力である。

 では最大の破壊力を持つ爆発とは何なのか? おそらくは、この世に存在する核爆弾の全てが同時に起爆した時に生じる爆発……ということになるだろう。『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』は限りなくそれに近い状況を実現してみせている。だから『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』は究極の爆発オチ映画なのである。(ただし、SFならば核爆弾以上の破壊力がある兵器を生み出せる。そう考えていくと『三体』は実は究極の爆発オチ映画を超える爆発オチを目指して書かれた小説だったのかもしれない。)

 もちろんなんの脈絡もなく地上の核爆弾を爆発させるわけにはいかない。というわけで、一人の狂人の暴走のために作動してしまった水爆による爆撃作戦(とそれに伴う皆殺し装置の作動)をなんとか止めようとするのがこの映画の本筋となっている。コメディなので、みんなで一丸となって……とはならず、なんなら乗り気の人物もいるし、どうでもいいことに熱心な人物もいる。

 余談だが、作戦を始動させるジャック・リッパー司令官の動機は、ソ連による水道へのフッ素混入作戦に対する報復をすること(アメリカの一部地域では虫歯予防のために水道水にフッ化物を添加している)。彼は性的不能に陥ったことをきっかけに、陰謀論にハマってしまったのである。一昔前までなら笑えたかもしれないが、陰謀論をリアルに感じる今の時代、ゾッとする人物像だ。

 まあそんな感じで人類の破滅を食い止めようと頑張っているんだか頑張っていないんだか分からない、愚かな人々をさんざん見せられた後の爆発落ちは誠に清々しい。爆発オチこそ至高。そんな風に思わされる。

喜劇は悲劇が起こる前に

 「押すなよ!押すなよ!絶対に押すなよ!」は、コメディー領域において、「押せ!押せ!押せ!」を意味するコードだ。「ニイタカヤマノボレ」とか「トラトラトラ」と同じだ。

 世の中には絶対にしてはならないことがある。核兵器のスイッチを押すことと、原発で事故を起こすことだ。コメディー領域を全世界まで拡張していった場合、この二つは絶対にやらなければならないことと化す。

 不謹慎に思えるが、不謹慎だからこそやる価値がある。喜劇には怒りを中和する力がある。怒りで我を忘れそうになった時でも、なんとかして笑い飛ばそうとする知的な営み、それが喜劇なのではないか。チャップリンも「人生は近くで見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」と述べたとか述べないとか。今風に言えばメタ認知というやつだ。

 とはいえ、核爆弾や原発でコメディーをやるのは、たぶん日本では難しい。原爆は実際に落とされてしまったし、原発は実際に事故を起こしてしまった。直近で実際に起こった悲劇を茶化せば非難は免れえまい。『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』も、ケネディ暗殺事件の影響で公開延期になった経緯がある。不謹慎なブラックコメディは、悲劇が起こる前にやることが肝心だ。