ギャングに唆されて友人の殺害に加担してしまった青年は、死んだ友人の妹に恋をしてしまう。
『波止場』は1954年の映画。監督は『欲望という名の電車』『エデンの東』のエリア・カザン。主演はマーロン・ブランド。アカデミー賞は8部門を制覇。
友人の死に関与する主人公
前回、映画の冒頭では死の臭いを漂わせるべしみたいな話を書いたが、『波止場』も殺人シーンから始まる。
主人公テリーは、ギャングの指示で友人のジョーイをマンションの屋上へ誘う。ジョーイは波止場で働く仲間たちから信頼が厚い人物だが、ギャングに関わるなんらかの秘密を知ってしまったらしい。テリーはそんなジョーイを話し合いの場に連れて行くだけのつもりだった。ところが、その後、ジョーイは謎の転落死を遂げる。ギャングが突き落としたに違いない。
ここでいうギャングとは、港湾労働者の組合のボスであるジョニーの一派のことだ。彼らはまさに暴力的集団という意味のギャングでもあるが、もともとギャングという言葉は港湾労働者を指す言葉でもあったから、まさに二重の意味でギャングなのだ。以下はWikipediaからの引用。
もともとは、オランダ語やドイツ語で「行進」「行列」「通路」を意味する言葉であった。これらの言葉が港湾で使われるうちに海外へ伝わり、また意味も変遷して、船内荷役作業員・沖仲仕(港湾労働者)の集団を指すようになったと考えられている。現代でも、海運業界は荷役作業員のユニットの意味でギャングという言葉を用いている[2]。
コンテナリゼーション以前の時代、高賃金で体力勝負の一方で、多くが日雇いであり労働災害も多い港湾・船舶の労働現場は、荒くれ者が自分たちの利益を守るために強固な集団を形成していることが多く、また、密輸などの組織的犯罪とも近縁の存在であった。そのため、アメリカの禁酒法時代に、暴力的犯罪者集団を特に「ギャング」と呼ぶようになり、以降現代で使われる暴力的犯罪集団の意味が強くなった[3]。
テリーはジョニーの一派として寵愛を受けている。兄チャーリーに至っては組合の幹部だ。友人の殺人に加担させられたからといって、ジョニーに逆らうことなどできない。
テリーだけではない。沖仲仕の仲間たちはみなジョニーを恐れて口をつぐむばかり。余計なことを言えば、ジョーイのように殺されるに違いないからだ。そうでなくても、ジョニーは沖仲仕たちに仕事を与える権力を持っている。違法な手段に手を染めずとも、合法的に港湾労働者の食い扶持を奪う力が彼にはある。
そんな中で、ジョーイの妹イディだけが激昂し、犯人を捕まえようと動く。ジョーイを看取った神父も彼女に感化されていく。
もうここまで書けば、今後のだいたいの展開が分かる。テリーはイディと恋に落ち、自分の知っていることを証言するべきか否かで葛藤していくことになる。
迫真性のあるテーマ
恐ろしい権力に対して、人はいかにして抗うことができるのか?
これは我々にとって非常に身近で重大なテーマだ。ほとんどの職場に権力関係が存在し、人間が複数いればハラスメントの問題はしばしば発生しがちだ。人事権という生殺与奪の権に近いものは必ずどこかしらに存在する。
特に最近では、ジャニー喜多川の性加害問題がニュースになっているが、我々はそこでジャニーズ事務所のタレントやテレビ局が声を挙げられずにいる姿を目の当たりにしているのである。(悪党の名前が共にJohnnyという奇跡!)
そんなわけで、『波止場』は一般ピーポーにとってもかなり迫真性のある映画となっている。
告発を困難にするもの
テリーにとってジョニーに関する告発が困難な理由はいくつかある。
- 殺される恐怖
- ジョニーに対する恩義
- 加害者としての自覚
テリーは殺されるのが怖いだけではないのだ。ジョニーのおかげで今まで生きてこられたという感謝がある。果たしてジョニーを裏切ることは正しいことなのだろうか?
そして、もう一つの恐怖。ジョーイの死にはテリーも関与している。これを知れば、イディは自分のことを嫌いになってしまうのではないか?
告発のその先
こうした困難を、テリーは神父の鼓舞によって一つずつ乗り越えていく。だが、その道のりは容易ではない。いくつもの犠牲を彼は強いられる。
案の定イディには避けられてしまうし、兄チャーリーは殺されてしまう。チャーリーがテリーを殺すか否かで葛藤するシーンは実に感動的だが、取り返しの付かない犠牲が出るまで人は踏ん切りをつけることができないのかという虚しさも漂う。告発に及んだ結果、テリーは仲間から村八分のような扱いを受ける。大事にしていた鳩も惨殺されてしまう。
告発者の行く末を実にシビアに描いている。(もちろんこれは映画的演出であって、現実もここまで過酷とは限らない。乃木坂46の早川聖来は今のところ干されていない。)
テリーにはニューヨークの外に逃げるという選択肢もある。しかし、テリーは逃げないことを選ぶ。港に行き、仕事を求める。当然、仕事はもらえない。ジョニーの事務所に殴り込みをかける。ジョニーの一味にボコボコにされるが、それでも立ち上がり歩くテリーの姿に沖仲仕たちは胸を打たれる。ついに、沖仲仕たちがジョニーに反旗を翻す。
こうして物語はハッピーエンドを迎える。
(余談だが、ラストでジョニーが海に突き落とされてみんなで笑うくだりがある。やっぱり「水に落ちる」はグローバルスタンダードな笑いなのだ!と感動してしまった。)
神とは
良い味を出しているのが、テリーを鼓舞し続ける神父だ。テリーを正しい道へ導こうとする姿が熱い。
告発をしようとしたデューガンが死んだ現場で、神父は沖仲仕たちに説く。
「十字架に磔にされたのはキリストだけではない。市民の義務を果たそうとする人が殺される時、それは磔刑だ。その不正を知りながら黙って見過ごしている者はキリストに槍を刺したローマ兵と同罪なのだ。毎朝、就業の札が配られる時、キリストは君らとともに並びこの不正を見ておられるのだ。誰が妻や子に食べ物を持って帰らねばならないか。君たちが魂を売っている現状を。常に不正と闘ったキリストは諸君の沈黙をどう思うか。この波止場には金銭への執着しか見られない。人間の愛は消えた。兄弟愛さえもだ。」(※基本的に字幕から抜粋しているが、意味が分かりにくい部分に手を加えた。)
キリスト教のことはよく分からなくても、キリストを良心と読み換えるとなるほどなと得心がいく。なるほど神はいるのかも知れないと思えた。
テリーはプロボクサーだった頃、兄に言われて八百長に手を染める。それ以来、死んだように生きてきた。そんな彼が様々な苦しみを覚悟して、神(=良心)を取り戻す。『波止場』はそういう映画だと、私は思った。
彼らの未来
テリーたちはいったいどんな未来を迎えるのだろうか?
ここまでで「沖仲仕ってなんやねん」と思った諸氏もいるに違いない。
沖仲仕は船の荷物の積み下ろしをする職業だ。昔は荷物が麻袋やら不揃いの箱に入っていて、これを船まで担いで運んだり、クレーンに上手いこと乗っけたりする作業が必要だった。時間もかかるし、たくさんの人手を要する。
こうした形態の沖仲仕は現在、たぶん、ほとんど、存在しない。コンテナの登場によって駆逐されたのだ。コンテナは一定の規格で作られた箱で、貨物の積み下ろし作業を大規模に機械化することができる。大勢の沖仲仕は不要になった。
コンテナが初めて本格運用されるのは1956年。『波止場』公開の2年後のことだ。1970年代にはコンテナリゼーションの波は世界に及んだが、ニューヨーク港はコンテナ化に遅れを取り没落していく。
ちなみに、それよりも前に、ニューヨーク埠頭地区風紀委員会が1953年以降、ニューヨーク港の雇用を一手に管理するようになる。つまり、ジョニーたちのような悪辣なギャングはあれから間もなく幅を利かせられなくなっていくものと思われる。
……みたいな話が『コンテナ物語』に書いてある。『コンテナ物語』を読んでいると、『波止場』の背景や来し方行く末に思いを馳せられて、より映画を楽しめるのではなかろうか。逆に、『波止場』を観ることでコンテナ化以前の港がいかなるものだったのか雰囲気を掴むことができて、『コンテナ物語』がより楽しめるに違いない。