ギャングから逃げるために女装をしたサックス奏者が楽団員に一目惚れをする。
『お熱いのがお好き』は1959年の作品。監督はビリー・ワイルダー。主演はトニー・カーティス、ジャック・レモン、そしてそしてご存知マリリン・モンロー。アカデミー賞は衣装デザイン賞のみ受賞。
嘘が緊張を高める
霊柩車を追跡するパトカー。始まる銃撃戦。霊柩車の中の棺桶に穴が空き、液体が流れ出す。蓋を開けて確認すると……中にはウイスキーの瓶が大量に詰め込まれている。時は1929年。場所はシカゴ。
こんなシリアスな雰囲気で映画は始まる。本筋から逸れるので省略するが、主人公の二人はギャングの犯罪現場を目撃し、追われる身となってしまう。
二人は追手から逃れるために、女性限定の楽団に潜り込んでフロリダへ逃亡を図る。
この映画の最大のポイントはなんといっても、男たちが女装をすることで起きるあれやこれやである。上に書いたのは、主人公たちに女装をさせるためのアリバイ作りにすぎない。
だが、それだけならば、貧しい二人はお金が欲しくて女装をするのでも十分だったはず。なぜわざわざギャングから追われているという設定にしたのか?
それは容易に女装をやめさせないためでもあるが、何よりも緊張感を作品に持たせるためだろう。もしバレたら楽団を追放され、ギャングに居場所がばれてしまう。この女装は命がけの女装なのだ。とはいえ急場しのぎでもある。クオリティは低い。やたらでかいし、服を脱げば毛むくじゃらだし……いかにもすぐバレそう。ますます緊張感は高まる。
『お熱いのがお好き』はコメディーだ。笑いは緊張と緩和だ。緊張感が高まれば高まるほど、緩和した時との落差が大きくなる。『深夜の告白』や『サンセット大通り』のビリー・ワイルダー監督だけあって、緊張感の高め方は上手い。
ちなみに、この作品で最も緊張感が高まるのが、再び二人がギャングに見つかる場面だろう。逃げた先がギャングの集会の会場だったため、かろうじてテーブルの下に隠れて難を逃れようとする二人。これは『キートンの大列車追跡』でもあったアレだ。敵に追われる主人公は、とりあえず敵の足元に隠れさせるべきなのかもしれない。
だが、この映画で本当に緊張感を高めているのはギャングではない。ギャングが登場するのは最初と最後だけだ。この映画において緊張感を生み出している最も大きな要素が嘘である。
二人の主人公はとんでもない嘘を吐くのに、なぜかそれがバレない。それが緩和にもなっているのだが、嘘がバレずに事態がエスカレートしていくことにより、「一体この嘘がバレたらどうなるのか?」という緊張感は高まり続けていくのだ。(ちなみに、ギャングたちも、葬儀屋を装ったり、酒をコーヒーに装ったりという形で嘘をついている。)
倒錯
人の不幸は蜜の味というが、笑いにおいても不幸は大事だ。二人の主人公、ジョセフィンとダフネは、不満をたれながら女装をする。こういうのは嫌々やるから面白い。アツアツおでんも熱湯風呂も嫌々やるから面白いのである。
さらに、これが倒錯する笑いもある。嫌々女装をしていたけど女に囲まれるから悪くないかもと思い始めたり、スケベジジイに熱烈なアプローチを受けるのが苦痛だったけど玉の輿も悪くないかもと思い始めたり……。
『お熱いのがお好き』は倒錯(逆さ、反対になること)の映画と言ってもいい。そもそも男が女の格好をするという基本設定自体が倒錯だ。
少しお馬鹿なヒロインであるシュガーは玉の輿を狙っているが、フロリダに着いて現れた富豪はスケベな顔をした爺さんばかり。そのうちの一人は、色々な意味でふわふわしてそうなシュガーには目もくれず、ごつくて身持ちも硬いダフネに熱を上げる。代わりにシュガーを口説くのは、富豪に扮したジョセフィン。爺さんがダフネのもとに通っている間に、ジョセフィンとシュガーは爺さんの船で熱い一夜を過ごすのであった……。
そしてラスト、ギャングから逃げるためフロリダを去らなければならなくなった二人。「また男に捨てられた」と泣きながら歌うシュガーを見かけたジョセフィンは、舞台に上がって彼女にキスをして囁く。
「泣かないでシュガー。男のためになんか」
なんだか分かんないが良いシーンである。シュガーを傷付けた張本人が、男のためになんか泣くなと慰めるのだ。これも倒錯である。
富豪の船で逃げようとする二人。追ってきたシュガーにジョセフィンは本当のことを告げる。「嘘つきの自分なんかを追って惨めな思いをするな」と諭すが、シュガーは「諦めさせて」と熱いキスを返す。
それを見ていたダフネと爺さんが微笑む。爺さんがダフネに告げる。
「ママがドレスをくれるってさ」
ダフネとの結婚を爺さんの母親も祝福してくれているらしい。
「ダメよ。お母さんと私じゃ体格が違う」
「直すさ」
「あなたとは結婚できないわ」
「なぜ」
「本物の金髪じゃないのよ」
「構わん」
「タバコも吸うわ」
「いいよ」
「サックス奏者と3年も暮らしてるわ」
「許すよ」
「子供が産めないわ」
「もらうさ」
「分かんないのね! ……男なんだ」(地声)
「完全な人はいない」
全てを受け入れる爺さん。好きになってしまったら、ちょっとくらいの欠点など気にならないものなのだ。大オチに向けてどんどんエスカレートしていくやり取りには音楽的な気持ちよさがある。
社会の中で生きていれば、誰だって多少なりとも嘘をつく。自分を少しでも良く見せようとして、本当の自分ではダメな気がして。でも、完璧な人なんていない。嘘がバレてもいいんだよ。あるがままのあなたでいいんだよ。きっと誰かがあなたを愛してくれる。『お熱いのがお好き』はそんなメッセージを我々に伝えている。(禁酒法施行中の1929年の設定だったり、女性たちがコルセットを着用している描写だったりを考えると、抑圧的な社会に向けたメッセージとして捉えた方がより正確かもしれないが。)
『お熱いのがお好き』の原題は"Some like it hot"。これはマザーグースからの引用で、続く詞も含めると"Some like it hot.Some like it cold.Some like it in the pot nine days old."。「熱い豆が好きな人もいれば冷たい豆が好きな人もいる。鍋に残った9日目の豆が好きな人もいる」という意味。まさにこの映画そのものを表すタイトルだ。