たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

『バッタを倒しにアフリカへ』冷徹な世界で愛する者を倒す旅に出た男の物語

 『バッタを倒しにアフリカへ』を読んだ。

 まずは表紙を御覧いただきたい。

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

 バッタのコスプレをした男が虫取り網を構えている。しかも、著者名が前野ウルド浩太郎? う~ん……。完全にふざけている。なんだか安っぽい。

 タイトルも『バッタを倒しにアフリカへ』ってそのまんまだし。要はバッタ研究者がアフリカでの研究生活を書いたエッセイなのだろう。

 ……ん?

 待てよ?

 研究者のエッセイ、しかも外国で活躍する研究者の本なんて、本格的な内容にならざるをえないはずだ。ビジネスマン相手に胡散臭い理論をぶちまかすだけのエセ研究者ならば、面白くもない思い出話を延々書いているだけということもありうる。しかし、この人の相手は昆虫だ。そこにエセ研究者の介在する余地はない。しかも、単身アフリカへ乗り込んでいる。面白エピソードの宝庫のはずだ(偏見)。

 こうして私の中に認知的不協和が生じた。

表紙 → 安っぽい

中身 → 面白そう

 この矛盾を解決するために、私はどうにか自分の解釈を整合性のあるものに仕立て上げなければならない。私の直感は次のような結論を出した。

 このような表紙を良しとするような著者はサービス精神に富んでおり、したがってこの本は大衆向けに書かれた、ユーモラスで知的好奇心を大いに刺激するエッセイに違いない。

 かくして私はこの本を買うことにした。最初の数ページを読んだ段階で私は己の直感が正しかったことを確信した。

 おそらく試し読みでも読める部分だから引用してみよう。

 

 100万人の群衆の中から、この本の著者を簡単に見つけ出す方法がある。まずは、空が真っ黒になるほどのバッタの大群を、人々に向けて飛ばしていただきたい。人々はさぞかし血相を変えて逃げ出すことだろう。その狂乱の中、逃げ惑う人々の反対方向へと一人駆けていく、やけに興奮している全身緑色の男が著者である。

 私はバッタアレルギーのため、バッタに触られるとじんましんが出てひどい痒みに襲われる。そんなの普段の生活には支障はなさそうだが、あろうことかバッタを研究しているため、死活問題となっている。こんな奇病を患ったのも、14年間にわたりひたすらバッタを触り続けたのが原因だろう。

 全身バッタまみれになったら、あまりの痒さで命を落としかねない。それでも自主的にバッタの群れに突撃したがるのは、自暴自棄になったからではない。

 

 子供の頃からの夢「バッタに食べられたい」を叶えるためなのだ。

 

 バッタへの愛がこれほど伝わる名文が他にあろうか?

 最初の一文で「100万人の群衆の中から一人の人を見つける方法とはなんだろう?」と読者に謎を提示する。次の文ですぐ答えを提示するが、それがとぼけたものなので読者のツッコミを呼ぶ。しかし、ツッコミながらも読者はハリウッド映画のようなワンシーンを頭に思い浮かべている。気付かないうちに、これから描かれる一大叙事詩への期待を高めてしまう。

 次の情報は「著者はバッタアレルギーである」というもの。そんなアレルギーがあるのか? バッタ研究者なのに? いや、バッタ研究者だからこそなのか!

 最後に繰り出されるのはキラーフレーズ。「バッタに食べられたい」「君の膵臓をたべたい」以上に強烈だ。だって、哺乳類の臓器は食べるし。ハツ、ミノ、ホルモン、シマチョウ。みんな大好きハラミだって横隔膜だ。SM的に考えれば「君に膵臓をたべられたい」も理解できる。女王様にムチで打たれたいの延長線上に「君に膵臓をたべられたい」があってもおかしくない。「バッタを食べたい」もまだ分かる。イナゴなら昔から食べられてきたし、昆虫食にスポットライトが当てられている昨今だ。だが、「バッタに食べられたい」は分からない。それはホラー映画のシチュエーションであって、絶対に起きてほしくない出来事の一つだ。間違っても、そうなりたいと望むものではない。だが、そうか、こう考えればいいんだ。著者にとって、バッタは女王様なんだ。初恋の相手なんだ。

 そう考えると、この本のタイトルはなかなか秀逸だ。初恋の相手を倒すために男は旅をする。日本からはるか遠くのアフリカの地まで。これは歪んだ愛の物語なのである。

 

 著者は博士号を取得するが、それは昆虫学者という職業に就くこととは全く別の話。著者は「就職」という難題に直面していた。バッタ研究は日本国内では需要がない。需要がないもので金を得るのは困難だ。ならば、バッタ研究の需要があるところへ行けばいい。バッタが飢饉を引き起こしている国であれば確実に需要はある。お誂え向きに、アフリカに腰を据えたバッタ研究は世界的にも進んでいないらしい。そういうわけで、著者はアフリカのモーリタニアへ向かう。

 実に単純明快な思考だ。だが、常人の発想ではない。普通は言語の通じない日本人もほとんどいない国での生活を想像し二の足を踏む(少なくとも私はそうだ)。それ以上に、自然相手の研究は不確定要素が多く、就職活動の一環として行くにはリスクが高い。実際に著者はそれで苦労することになる。

 だからこそ、果敢に行動する著者の背中に、楽しそうな生活の様子に、勇気づけられる。初めてのフィールドワークで次々に新発見をしていく様子はRPGのような面白さがある。世界にはまだまだフロンティアがあるらしい。モーリタニアならではの暮らしぶりは、日本人からすれば異世界の出来事で、異世界ならではの面白さがある。外国の暮らしを大変そうだと思うか、楽しそうだと思うかは、見方次第なのかもしれない。

 

 言うまでもないが、『バッタを倒しにアフリカへ』というタイトルではあるが、「バッタを倒す」までには至らない。たった数年の研究で滅ぼせるほどバッタは甘くない。それどころか、モーリタニアには2年しかいられないにもかかわらず、干ばつでバッタが現れないという展開が待っている。ついに著者がバッタの大群と邂逅するのは、物語の終盤だ。両者の愛の物語はまだ始まったばかり。まるで『君の名は。』のようではないか。

 この物語は著者が職を得るところで一旦の終結を迎える。異国の地で研究をする勇気ある昆虫学者がなぜこれほど苦労しなければならないのだろうか。著者は持ち前の大胆さで道を切り開いていく。だが、当時の著者が抱いた葛藤は並々ならぬものがあったはずだ。無収入になることを恐れながら、アフリカでの研究を続けたいと願う著者。『チ。―地球の運動について―』を想起させるものがある。実は我々の住む現代日本社会も、地動説を弾圧していたあの世界と本質的には変わらないのかもしれない。

 『バッタを倒しにアフリカへ』は、ポスドクが冷遇される世界でバッタへの愛を貫いた男の物語である。