たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

『呪詛』を見て考えた裏側理論

 『呪詛』を見た。今話題の台湾製ホラー映画だ。


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 良質なホラー映画だとは思ったが、怖くはなかった。ドキドキはしたが、これは生理現象なので仕方がない。ドキドキを飛び越えて、「これより先を見たくない!」という気持ちにまでなったかといえばならなかった。

 映画は所詮、映画の中の出来事でしかないので、そこまでの状態に至ることは難しい。私は虫が嫌いだが、完全に遮断された場所にいる虫を観察するのはどちらかといえば好きだ。蜘蛛は家の中にいてほしくないが、窓の外で蜘蛛が巣を作る様子を見るのは楽しい。映画とはちょうど窓の外の蜘蛛のようなもので、自分は絶対安全圏にいるため怖さは感じにくい。ネタバレになるので隠すが、『呪詛』は「これを見たお前らに祟りをおすそ分けするよ」というタイプの映画だが、祟りなどこの世に存在するわけがないので関係ない。もし『呪詛』を見て呪われるなら、すでに社会問題になっていていいはずだ。

 それはともかく、上に書いたように『呪詛』は良質なホラー映画だ。しかも、(日本人にとっては)わりと定番の設定を使っているから「ホラー映画ってこういうのだよね」を学ぶのには最適な素材だと思う。

 というわけで、ここからは『呪詛』を見て私が考えた恐怖について書いていきたい。なんらかの参考文献があるわけでもないので完全に私の妄想である。

 

 恐怖とは何だろうか。それは人の心の状態である。何か辛いことが起きてほしくないと願っている状態だ。当たり前のようだが、これは極めて重要なことだ。

 なぜなら、そこから結論されるのは、「怖い物」などというものはこの世に存在しないということだから。ホラー映画で恐怖そのものを映すことは決してできない。できてせいぜい嫌悪感を催すもの、グロいものを映すくらいだ。しかし、「美人は3日で飽きるがブスは3日で慣れる」というが、グロ画像もじっくり見れば慣れる。おそらく数十秒もあれば十分だ。仮にそうでなかったとしても、「グロ画像を見たくない」という状態は恐怖している状態だが、グロ画像を見てしまえば、その瞬間から感情の種類は恐怖ではない別の何かになる。もしグロ画像を見て恐怖を覚えるとしたら、それはグロ画像を媒介して別の恐ろしいことを想像していることによってもたらされた恐怖であって、グロ画像を見ていることそれ自体が恐怖を喚起するのではないのである。たとえば、交通事故で死んだ人の画像を見て感じる恐怖は「自分もこうなるのかなあ」「自分がそうなったらすごく痛そうだなあ」という想像から生まれるものだ。しかし、そんな想像をしている状態は長続きしない。

 怖い物を映すことができないのであれば、ホラー映画にやれることは一つしかない。観客に想像をさせるのだ。では、どうやって観客に想像をさせるのだろうか?

 そこで私が考えたのが裏側理論である。裏側を上手に使うことで恐怖を観客の心の中に生み出すことができる。裏側を使うことでしか恐怖は生み出せないとさえ言ってもいいかもしれない。

 どういう時に観客は想像するのであろうか? それは想像するしかない時である。想像するしかない時とはどういう時だろうか? 恐怖の対象、つまり「存在してほしくない」と思うものが見えないときである。見えないものとは何だろうか? 我々が見ている世界の裏側に存在するものである。我々は普段、目に見えているものしか意識しない。それがなんらかのきっかけで、目に見えていないところに何かが存在することを意識した瞬間、恐怖が生まれる。そのきっかけをいかに上手く与えられるかがホラー映画における腕の見せ所だ。

 たとえば、扉の向こうから物音がする。天井から物音が聞こえる、缶の中で何かが蠢いている……。これはシンプルに物体の裏側にあるものを想像させる。霊じゃなければ戦闘で倒す余地がありそうだから、これは戦闘力に自信がある人にはそんなに怖くないかもしれない(現実的な事象なので迫真性はある)。

 また、我々は様々なブラックボックスに囲まれて暮らしている。電化製品が分かりやすい例だ。自動販売機の仕組みを知っている人はそう多くはないし、知っていたとしても電流の流れる様子や中で機械が動く様子を見ることができる人はいない。電化製品が正常に作動する限り、その裏側を想像することはない。異常が起きた時に起こることのパターンも私たちは覚えていて、その範囲内で異常が起これば、我々の信じる物質的な世界観は揺るがされることはない。しかし、想定の範囲外のことが起きれば、私たちは電化製品の裏側にある(物質以外の)何かを妄想してしまう。というわけで、不意に電球が切れたらドキッとするし、点滅すると怖かったりする。物理法則もブラックボックスと言えるから、倒れるはずのないものが倒れるとかはやはり世界の裏側を想像させ恐怖を生み出す効果がある。

 ブラックボックスといえば、人間もブラックボックスだ。秘密を隠すのに最適な場所は人間の脳内だが、人間の頭の中は絶対に覗けない。したがって、人間が何か奇天烈なことを言ったりやったりするのは、やはり裏側にある何かを想像してしまう。

 手紙やメールのやり取りなんかも裏側が見られない。楽しくやり取りしてたのに、突然、異常な文章なりなんなりが次々と送られてくるのは恐怖だ。相手は本当に自分の知っている相手なのだろうか?と裏側を想像せざるを得ないからだ。

 山奥の村が怖いのは、都市に住む多くの人々にとって、それが現代社会の裏側にあるもののように感じられるからだ。

 そんな感じで、我々が見ている世界の裏側を想像させるのが恐怖を喚起する手段なのである。これを発展させると、裏側の多い空間はそれ自体、怖さを感じさせやすいスポットであるということになる。車の中や洞窟のような密閉空間は怖さを演出しやすい。逆に、大草原の真ん中でホラー映画を作るのはたぶん難易度が高い。『ミッドサマー』はわりとそんな感じの映画だから、けっこうすごいことにチャレンジしていたのかもしれない。

 鋭い人は、「人が見ている世界ってそんなに広くなくね?」と思ったかもしれない。人間には2つの目で見える範囲のことしか見えない。見える範囲より、見えない範囲の方が圧倒的に広い。にも関わらず、我々はそれを意識しない。では、これを意識させるにはどうしたらよいだろうか? そう、カメラを使うのだ。『呪詛』にもたくさんのカメラが出てくる。監視カメラ、ホームカメラ、車載カメラ、スマホカメラ……。我々の生活はこれほどカメラに囲まれているのかと思わされるぐらいだ。『パラノーマル・アクティビティ』や『カメラを止めるな!』(の劇中劇)など、カメラを効果的に使ったホラー映画は多い。

 

 こんな感じのが裏側理論である。

 大事なのは、ホラー映画の手法はどんなジャンルでも使えることだ。『ジョジョの奇妙な冒険』なんかは分かりやすい。『ジョジョ』のハラハラドキドキはホラー映画的演出によって生み出されている。

 ドキドキさせることを狙わなければ、いきなり裏側を見せてしまうというのも手だ。我々は見えているものしか意識しないから、裏側を見せることは意外性を生む。意外性のある映画は面白い。黒澤明の『椿三十郎』やスティーブン・スピルバーグの『プライベート・ライアン』は裏側を上手く使ったエンターテインメント映画だ。宮崎駿も、『もののけ姫』の乙事主の登場シーンで、モロの君を(画面端ではなく)木の陰から現れさせるなど、裏側の面白さを熟知している監督だと勝手に思っている。

ちんちん幼稚園!

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この中に一つだけ「血」じゃない字が隠れているよ! 探してみよう!

ワタシハイマパンツイッチョウデコレヲカイテイルゾ!!!!

 

 

 

 

 う~ん、だめだ! ブログも裏側が見えないから変なことをいきなり書いたら怖いかなあと思ったが、ただゲシュタルト崩壊を起こしそうになるだけだ。全然怖くない。理論はわかっても実践は難しい。