「はい、えーお世話になってます。伊藤と畠中でオズワルドです。お願いしまーす。お願いしますー。お願いしますー。」
まずは挨拶ですね。
最終決戦でも同じ挨拶です。イチローのルーチンみたいなもので、実はここを決めるのが大事なのかもしれません。M-1グランプリという大舞台でも実力を発揮できる秘訣はこの何気ない挨拶にあるのかも。
「あのー、こないだほんっとまいっちゃったんだけどさあ。友達と渋谷のハチ公前で待ち合わせしてたんだよ。で待っても待っても全然友達来なくてえ。で二時間ぐらい待ったとき気付いたんだけど俺、友達なんていなかったんだよね。」
畠中さんのエピソードトークからネタが始まります。
漫才の入りの定番は以下の三つです。
- エピソードトーク
- 悩み相談
- 願望の告白
ちなみに、ランジャタイは「風が強い日ってあるじゃない?」から入り「そういう日のために準備したいんだよねえ」的な展開にいくのかと思いきや、その日がどういうものかを延々と語り続けるという独特なことをやっています。独特すぎてついていけない人が続出したことが予想されますが。
それはそれとして、普通のエピソードトークならば、自分か友達のどちらかがなんらかの勘違いをしていたとか、なにかハプニングが起きたとか、そういう展開が待っていそうな出だし。
ところが「そもそも友達なんていなかった」という衝撃のオチが待ち受けています。
この話はすぐにパクれそうですね。同僚や取引先、友達の友達なんかと気まずい沈黙が流れた時にこのエピソードトークを使えばひと笑い取れるかもしれません。ノリのいい人なら↓のように返してくれることでしょう。
「えなになになになになにねえなになになに」「え何が何が何が何が」「お前は違う。お前は違う絶対。一回落ち着けってちょっと」
「え、結局何が言いたかったの」「あ、友達が欲しいなって話がしたかったの」「ちょっとキモターボ強すぎてわかんなかった」
この漫才の素晴らしいところは、一貫して「畠中は友達が欲しい」を軸に話が展開するところです。話があっちいったりこっちいったりしないので分かりやすい。
「キモターボ」いいですね。造語ツッコミは何気ないツッコミでも笑いを取れます。「あたおか」「雷坊主の添い寝節」など、印象に残るフレーズはいつまでも記憶に残ります。
「え、畠中友達ゼロなの?」「近所に何でも話せるお地蔵さん」「まゼロだなあ」
ボケの話を遮ってツッコミ。このボケには二つの面白ポイントがあります。
- お地蔵さんに友達の可能性を感じている
- なんの参考にもならない情報を言ってくる
話を遮ることで後者の印象が際立って、ボケの面白さが引き立つ。
そのうえ時間短縮にもなるという高等テクです。
「俺友達ゼロの人ってよくわかんないからさあ」「あそう。てことは君は友達いっぱいいるってこと?」「俺はこう見えて割と友達多いほうだと思うけど」
「じゃあもしよかったらでいいんだけどさあ、今度きみの友達オレに一人くれないかなあ」「ん?」
必然的に解決策はこうなります。
「あ、ごめんごめん。もちろんあれだよ。君の中で、一番いらないやつでいいからさ」「あぁ~、これがゼロかあ」
濃度の高い方から低い方へ物質が移動するのは当たり前。富豪が貧者を助けるのは当たり前。多い方から少ない方へ物が流れていくのは自然の摂理です。それと同じくらい、抵抗が強いところより弱いところへ多く流れていくのもまた自然の摂理です。
というわけで、畠中さんは伊藤さんに(抵抗が最も少ないであろう)一番いらない友達を譲ってくれるよう頼みます。
が、友達を物だと思っていない伊藤さんからすれば、友達は譲る譲らないの対象ではありません。全く違う価値観を突きつけられたような気分です。
ここには異文化交流の面白さがあります。『ここがヘンだよ日本人』『E.T.』『となりのトトロ』……昔から異文化交流ものには一定の需要があります。
「いやいや俺の友達あげられないよお前」「え?ええ?えぇ?え、なんで?」「お前どの感情で喋ってんの」
これは異文化交流。
伊藤さんが畠中さんを理解できないように、畠中さんも伊藤さんを理解できないのです。
「あげらんないよ友達は」「だったら俺のお気に入りのズボンと交換しない」「あんま舐めんなよお前。なんで俺が自分の友だちとサイズの合わないズボン交換しなきゃいけないんだよ」
古来から人は物を交換して文明を発達させてきました。人から物を貰うには対価が必要です。畠中さんはくださいくださいばっかな自分 に気付いて、お気に入りのズボンを対価として提示します。
これは一見まともな交渉に見えますが、両者の価値観のズレが存在します。畠中さんにとってみれば「お気に入りのズボン」でも、伊藤さんからすれば「サイズの合わないズボン」でしかないのです。
ボケの隠された面白ポイントを客に説明するのはツッコミの王道です。男子フィギュアスケートで言うとトリプルアクセルくらいの王道。話の流れの中にさらっと入れ込んでいるのがGOE高めです。
「それが嫌だったら俺にあげる友達一人選んで」「お前にあげる友達なんて選べないって」「だったら俺が選んであげるね」「は?」「一番足が遅いやつにしよう」「なんだって」「きみの友だち全員一斉にグラウンドに解き放ってえ。その5秒後に俺が追いかけるから。最初に捕まったやつが友達な」「もう人間の話じゃねえよ。俺村人が頭抱える妖怪と喋ってんのか」「そろそろお別れの準備はできた?」「それ出棺の時のセリフ」
例えツッコミも王道ですね。ぜんぜん違う二つのものの中に類似点を発見することは人類にとって大いなる楽しみのようです。不思議ですね。
これまで畠中さんが人間であることを前提に話を進めて来ましたが、畠中さんは人間ではなかったようです。
「てかその、そこまで友だちが欲しいならぁ、もう俺がお前の友だちになってやるよ」「ああ、そういうんじゃない、そういうんじゃない」「あぁそう」「君だけは、てか、え、ちょっとまってください。この子めっちゃ面白くないですか?」「ぶっ飛ばすぞお前」
ここで一番平和的な解決策が提示されます。友達が譲れないなら、互いが友達になってしまえばいいのです。
しかし畠中ここでまさかの拒否。
謎の提示です。
「なぜ畠中は伊藤を友達にしないのか?」
人間は謎を前にすると、謎を解きたくなってしまう生き物です。ミステリー小説が存在するように、謎は一大エンターテイメントなのです。
謎を孕む物語は加速していきます。
ちなみに、ここで畠中さんが観客に向かって話しかけます。冒頭の挨拶以降、二人の会話で漫才が進んでいた中、突然観客が取り込まれます。二次元だった漫才が観客の存在を意識させることで三次元になり、立体感が生まれる。かまいたちも得意とする手法ですね。
「なんで俺がゼロに断られなきゃいけねえんだよ」「君だけは絶対友達になれないんだ」「上等だよタコもうこっから先は俺のことでっかい中指が立ってると思え」「だとしたら爪長すぎるだろ」「どこの話してるのそれ」
上で造語ツッコミには滑るリスクがあると書きましたが、同じことは凝ったツッコミ全般に言えます。これは裏を返すと、凝ったツッコミはボケでもあるということができます。
「オレのことでっかい中指が立ってると思え」という癖が強めなツッコミ(=一種のボケ)を契機に、畠中さんがツッコミ側に回ります。
ここで笑い飯のようにダブルボケで展開するパターンもありえますが、オードリーのようにツッコミとして成立していないというパターンもあります。オズワルドは後者を選びました。ここまで畠中がボケ、伊藤がツッコミという図式で来たので当然の選択です。
ここではツッコミ→ボケ(?)→ツッコミ兼ボケ→ツッコミ兼ボケ→ツッコミ、と流れていくので上で書いたように漫才のスピード感が増しています。
「君とかじゃなくてえ。君の友達の中のいらないやつをちょうだいって」「だからいらないやつなんていないっつってんの」「たのむよ。なんか双子の友達とかいない」「双子はダブってるからあげるとかないから。俺の友達双子もいない」
「いらない友達なんていない」というのはなんとなく人類が共有している観念だと思いますが、オズワルドはその抽象的な観念に肉付けをしていくことを試みていきます。
手始めに、双子の友達なら片方はいらないのではないか?という問いかけです。「じゃ、君ほかどんな友達がいんの」「お前には言わねえよ」「ところで北林は元気?」「ヤマカンで当てに来んなよお前。北林もいない」「じゃあ藤林」「藤林もいない」「大林は?」「ばやしの一点張りやめろ。こんなもんであたるわけねえだろ」「じゃあ小林は?」「小林はオマエ……」「みいつけた!」「こええわぁ!」畠中よだれを啜る「じゅるるるじゅるるるじゃなくてちょっと」
オズワルドはさらに友達に具体性を与えていきます。抽象的な概念に圧倒的な具体性を与えるには、固有名詞を与えるのが一番です。
ここでも謎を利用しています。「伊藤の友達の名は?」という謎です。
しかし、畠中さんは的はずれな調査手法を取ります。これもボケの王道ですね。今大会でもモグライダーが同じやり方を主戦法として用いていました。
ただあながち的外れでもないことが徐々に明らかになっていきます。誰の知り合いにも小林はだいたいいるからです。それでいえば、佐藤や鈴木や田中を目指す流れでも良さそうですが、藤攻めや木攻めより林攻めの方が音にした時に分かりやすいからでしょう。この漫才においてオズワルドは分かりやすさを重視しています。
「俺にもっと小林について教えてよ」「お前に小林あげないって言ってんじゃんずっと」「小林は地元の友達」「ちげえよ」「じゃあバイト時代の友達」「ちがうって」「大学時代の友達」「ちがう」「大学の友達なんだあ」「脈測られてるんだけどー! 離せよ気持ちわりいなあ」
よく恐怖と笑いは紙一重と言われますが、ここではもろにホラーな手法が用いられています。怖ければ怖いほどツッコミが生きます。
この場面は小林発見までの流れの天丼です。似た流れの繰り返しですが、一回目と決定的に違うのは手首を掴んでいる点です。ここまで聴覚と視覚で観客を楽しませてきたオズワルドですが、伊藤さんが手首を掴まれるのを見て観客は自分も手首を掴まれている感覚に陥ります。聴覚・視覚・触覚への発展を遂げているのです。
触覚が刺激されることで恐怖の迫真性が増します。ゾンビはなぜ怖いのか? 襲ってくるから怖いのか? ゾンビにされるから怖いのか? いや、肉体が腐っているから怖いのです。肉体が腐っているゾンビを見ると観客は肉体を激しく意識せざるを得ないのです。観念的な恐怖が受肉し重みを得るのです。
「小林ちょうだいよ。俺もう小林以外考えらんない」「お前まだ小林の名字と最終学歴しか知らねえだろがお前。小林も俺といたほうが幸せにきまってるから」「そんなことないから。じゃあたとえば小林が詐欺で捕まったとき、君なら友達として何ができる」「そんなもん友達としてもう二度とすんなよって叱ってやんよ」「小林は詐欺なんてしない」「話がちげえじゃねえか。俺詐欺の話で詐欺にあってるじゃん」
「君全然小林のこと信じれてないじゃん」「小林って男はなもともと借りた金も返さないし嘘しか吐かないし詐欺師って言われてもしかたがねえ男なんだよ。小林いらねえなあ! 何だこのクズ。俺なんでこんなクズと友達なんだよ」「俺の友達を馬鹿にするなよ」「まだおめえのじゃねえよ」
ついに、抽象的な概念だった「友達」が、小林という一人の人間として立ち上がりました。小林は金を借りれば返さない、嘘しか吐かないような男だったのです。
そして、頭に思い浮かべるものが抽象的な友達から具体的な小林になった瞬間に、いらない友達がいたことが明るみになります。
この鮮やかさよ!
- 友達と待ち合わせしてたけど友達なんていなかった
- 小林が詐欺で捕まった時にどうするか聞いたけど小林は詐欺なんてしなかった
という小さな前提返しを繰り返してからの「いらない友達なんていないと言っていたけど小林はいらなかった」という大どんでん返し。
「そんなやつと友達になるなら絶対オレと友達になったほうが良いだろ」「君はダメだって」「だからなんで」「だって君は親友だから」「オレは親友だってさあああああああ!」「オレのことはでっかい人差し指だと思って」「人差し指……? ビッグピースじゃあああああん!」「そんな親友になら小林くれるね」「いや結局それかい」
そして、中盤で提示された謎がここで明かされます。
「なぜ畠中は伊藤を友達にしないのか?」
それは伊藤は親友だったから。言われてみればそれはそうです。そうじゃないと、この二人なんで会話しているの?という疑問が解消されません。
さらに伊藤さんは中指なので、畠中さんが人差し指になればピースになります。
伏線回収に次ぐ伏線回収。
そして、こんなあからさまなリップサービスでめっちゃウキウキする伊藤さんが面白い。
こうして友達ゼロの畠中さんと友達が多い伊藤さんのアンバランスは少しだけバランスを取り戻すのでした。少しの違和感を残して。
う~ん、見事すぎる。たった4分の間にこんなに技巧と哲学とドラマが詰まっているなんて。この記事を書くために十回以上は見ましたが全然飽きません。
来年もこのコンビを見られるであろうことは、我々にとって幸せなことですね。
笑いとは芸術なのかもしれません。
ちなみに、この漫才の原型が↓のようです。
十分に面白いですが、やはりM-1グランプリバージョンの完成度が圧倒的に高いですね。
傑作は最初から傑作として生まれるわけではない。これを励みに生きていきます。