たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

ベイブレードは回るよいつまでも

「めたたぬきさん、私、四月からうどん県の方に派遣されることになりまして」

 もうすぐ四月になろうかというのに、真冬のような冷たい風が吹く日のことだった。

 同期入社の女子が珍しく話しかけてきた。

「どうやら百年くらいあっちに行ったままみたいなんです」

「百年も? 長いですね」

「それから私事なんですが、このたび結婚しまして。苗字が狸蕎麦から狐饂飩に変わるんです」

「そうなんですね。分かりました」

 会話はそれで終わった。「おめでとうございます」という言葉が出なかったのは、会話が下手だからか、驚きのためか、嫉妬のためか……。そのどれもか。

 久々に間近で見る彼女は相変わらず綺麗だった。マスクをしているからなおさらだった。(狸蕎麦さん、かわいいな~……)と見惚れていたら結婚報告を受けていた。

 

 それから数日。朝の通勤電車に、スーツに身を包んだ若い女性が緊張の面持ちで座っていた。もしかしたら、我が社の新入社員かもしれない。ここらへんは田舎だから職場は限られている。

 月下美人のようだ、と思った。女性のスーツ姿は美しい。にも関わらず、研修期間がすぎると間もなくカジュアルな服装に移行する社員が多い。もちろんカジュアルにはカジュアルの良さがあるのだけれど、スーツスタイルはこの時期にしか拝めない。一夜しか咲かない月下美人の花のように、一秒一秒を尊いものとして噛みしめる必要がある。もてない男の助平心がそう叫んでいた。

 

 陳腐な言い回しだが、春は出会いと別れの季節だ。

 新入社員を受け入れる社員は、みな心に傷を負っている。

 会社に失望して新天地へ飛び立っていく同年代を見送って、取り残されたような気分になる。理解できない人事異動による不安に襲われ、心身の病でボロボロになった先輩の背中に未来の自分を重ねてしまう。

 それでも、いや、だからこそ、新入社員を見るその目には期待が宿る。何かを変えて欲しいと願っているわけではない。悪い方向に変わりさえしなければいい。ただ、窓から吹き込む春風のように癒やしをもたらしてはくれないだろうか。

 それはささやかなようで重すぎる期待かもしれない。

 

 会社の最寄り駅に近づくと、月下美人がまだ硬そうな鞄からゴソゴソとなにかを取り出し始めた。

 俺は目を疑った。それはベイブレードだったのだ。久しく見ていなかったから一瞬なにか分からなかったが、記憶の奥底に沈んでいたベイブレードの形とそれが一致した。

「ヴァルキリー! 俺たち世界一のベイブレーダーになってやろうぜ!」

 マスク越しに漏れてきた、その小さな声を俺は聞き逃さなかった。

 その瞬間、堰を切ったように記憶が溢れ出してきた。

 そうか。この新年度の高揚感は、ベイブレードに似ているのだ。

 

 ベイブレードは現代版のベーゴマだ。

 コマを回し、相手のコマを弾き飛ばしてスタジアムの外に出すか、最後まで回っていた方の勝ちというルールは変わらない。

 進化したのはコマだ。ベイブレードは上から順にレイヤー・ディスク・ドライバーで構成されており、この組み合わせによって自分だけのベイブレードを作ることができる。

 ベイブレードはその特性に応じて4つのタイプに分類される。アタックタイプ、ディフェンスタイプ、スタミナタイプ、バランスタイプだ。

 アタックタイプは相手のコマを弾き飛ばす、あるいは破壊することを得意とするコマをいう。長く回ることはできないから長期戦に持ち込まれると不利だ。

 ディフェンスタイプは相手の攻撃から身を守ることに特化したコマのことだ。最後まで回ることが目標になるが、スタミナタイプほど長くは回れない。

 スタミナタイプは長く回ることに特化したコマだが、攻撃には弱い。

 バランスタイプは良く言えば上記三つの良いとこ取りであり、悪く言えば特に強みもないコマだ。

 つまり、アタックタイプはスタミナタイプに強い、ディフェンスタイプはアタックタイプに強い、スタミナタイプはディフェンスタイプに強い、という三すくみになっており、最強のベイブレードというものは存在しないとされている。

 この制約のもと、ベイブレーダーは相手に勝つための戦略を立てる。自分だけのベイブレード哲学を胸に抱いて。

 俺も小学生の頃、友達とベイをぶつけ合って楽しんだものだ。家で一人、最強のベイブレードを考えるのも楽しかった。負けた悔しさを晴らすため努力して、勝てた時の喜びはこの上ないものだった。

 

 これはプロスポーツのチーム編成や企業の人事戦略に似ている。

 たいていの組織は最強の人材だけで構成された最強のチームを作ることができない。それには膨大な金がかかるからだ。

 限られた予算の中で、応募者から自社に最適な人材を見出し、それを的確に配置する。完全無欠な編成など現実的には存在しない。否応なしに、組織がどうなりたいかという哲学がチーム編成に反映されることになる。

 低成長でも社員のクオリティ・オブ・ライフを重視するのか、過酷な労働をしてでも高成長を目指すのか。スペシャリストを育てるのか、ジェネラリストを育てるのか。それとも、哲学を持たず暗闇の中でさ迷っているのか……。

 

 駅を出ると、一面の桜が咲いていた。

 俺は高鳴る胸に問いかけた。

(ラグナルク……お前は俺の心の中で今も回り続けているのか……?)

 一陣の風が吹いた。桜の花びらが舞った。

 どこからかベイのぶつかる音が聞こえた気がした。

 

※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体などとは関係がありません。