たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

このブログのマイルール

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」

 

 私がインターネットに触れたのは20年以上前のこと。当時のPCはブラウン管のごとき分厚さで、マウスは光学式ではなく裏にボールが付いていた。

 Googleがまだ生まれて間もない頃で、ポータルサイトのgooから検索やらなんやらでネットサーフィンをしていた記憶がある。

 その頃はまとめサイトみたいなものは(たぶん)なく、ほぼ全てが個人サイトであった(ブログなどまだない時代である)。多くの個人サイトにはアクセスカウンターがあって、遊戯王関係のサイトでキリ番を踏むと遊戯王カードをもらえるみたいなことがよくあった(私が当たったわけではないが)。BGMが流れたり、カーソルのアイコンが変化したり、隠しリンクがあるサイトもあったりした。そういうサイトに貼ってあるバナーを伝って旅をするのが当時のネットサーフィンであったように思う。とまあ、これはただの思い出話。

 当時『ドラえもん』にハマっていた私は、ドラえもん関連のワードで検索することが多かった。可愛いやつである。そんないたいけな小学生を、なぜかgooの検索エンジンは魔界へと誘った。

 その魔界の代表格が2ちゃんねるである。そこで飛び交う言葉はそれまで触れたこともない罵詈雑言の嵐。それだけで震え上がっていたのが当時の私であるが、今の私がそういう感情を5ちゃんねるから抱かないのは、相手が変化したのか自分が変化したのか? たぶん両方だと思う。

 というのも、当時は2ちゃんねるに貼ってあるリンクを踏むと、ブラクラが起動することがわりとよくあった。ポチると無限にウィンドウが開き続けるアレである。PC初心者にとってはパソコンがぶっ壊れたに等しく、手を震わせながらPCの電源を落としたものである。そんなもんだからエロサイトの「あなたは18歳以上ですか?」の文言にも近寄りがたい何かがあった。「ここで『はい』を押したらまたパソコンがぶっ壊れるかも……」という恐怖がそこにはあった。

 それがいつからかブラクラというやつを全く見かけなくなった。そういう意味では今のインターネットはかなり安全になっているのかもしれない。今の小学生たちはインターネット上のリンクを不用意に踏んではいけないということをどのようにして学ぶのだろうかと心配になるほどである。

 だが、人の悪意が消えたわけではない。インターネット上の詐欺や有名人への中傷などはむしろ増えているはずである。インターネット人口が増えているのだから。かといってインターネットが悪意を増幅させているのかといえば、それも分からない。おそらくインターネットの時代より前から世界には悪意が渦巻いていた。その中心が、噂からマスコミへ、マスコミからインターネットへと移動しているだけの話だ。きっと。(もちろん発信のコストも受信のコストも下がっているから、そういう意味では悪意の的になりやすい有名人には厳しい時代かもしれない。)

 そして、これは他人事ではない。みんな薄々気付いているであろうが、怒りというのはこれ以上ないエンターテインメントなのである。怒っている時、人は不快な気持ちになっているようで、実はエクスタシーを感じているのである。昔から小説、演劇、映画、漫画、アニメ、至るところで悪役が大衆の怒りを喚起することで歓喜させていたわけである(うまい!)。人は怒っている時、実は怒りたがっている。そんなことないと思うなら、ためしに今度、怒るようなことがあった時に自分の感情を注意深く観察してみるといい。怒りたがっている自分がいることに気づくに違いない(そんなことなかったら私の間違いですごめんなさい)。

 この快楽には抵抗し難い魅力がある。人の悪口を言うのはとても楽しい。まして対象が悪いやつなら後ろめたさなく、悪口の快楽にふけることができる。

 私は大学生の頃、このブログとは別のブログを運営していた。そこでは専らアニメの批評をしていたのだが、しばしばつまらないと感じたアニメに対する批判を展開したものである。そうすることで自分の中のもやもやとした気持ちを発散させていたのだ。もちろん自分なりに正義はあって、「ただの悪口は書かない。人格批判はしない。どうしようもないことも批判しない。なるべく理解しようとする。それでも納得できない作品の欠点を論理的に指摘するだけ。できるだけ対案を出す」というようなことを信条にしていた気がする。

 だが、どれだけ正論ぶったとしても、シビアな言葉はシビアな反応を引き寄せる。自分に対して批判的なコメントが寄せられると、2ちゃんねるで飛び交う罵詈雑言にドキドキしていた小学生の頃の自分が戻ってきて、何にも手をつけられなくなってしまう。臆病な自分にできることは、そのコメントのことを忘れるまで寝ることだけだった。

 私には悪意があったわけではない。誰かを傷つける意図は全く無く、どちらかというと世の間違いを正そうという正義感しかなかった。が、私に批判的なコメントを寄せた人もおそらく同様の心持ちだったに違いない。もしかすると悪意の正体は、悪意とは正反対のところにあるのかもしれない。

 時にはそういった批判精神が必要な場面もあるだろう。他人の金メダルを勝手に噛むおじさんが一切批判されない世の中は、たぶん優しい世界ではない。

 しかし、少なくとも私には自分に向けられた怒りを受け止める度量がない。怒りはきっと他人の怒りを引き寄せる。だから、このブログを開く時に、一つのマイルールを課した。

批判は書かない

 誰を批判せずとも批判されることはあるだろうが、その確率は減ると期待したいところである。

 人を批判するのはとても簡単だ。なぜなら批判されないように行動することはとても難しいから。どんなに気をつけても批判の余地はあるものだし、限られた時間とリソースの中で行わければならないならなおさらである。

 楽して立派なことをしたつもりになりたい、自分の中のモヤモヤを発散させたい、他人の気持ちなんか考えたくないという甘えが人の心にはある。もちろん私にもある。これまで書いた記事の中にも、そうした心の声が漏れてしまっている部分があるに違いない。

 そういう隙を見つけた時は、優しい気持ちで許してくれるとありがたい。私もなるべく人に優しくしようと思うから。