たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

自己紹介その一 実は私、東大法学部卒なんです。

 今まで自己紹介をしてこなかったので、自己紹介をしようと思います。

 バビボと申します。この名前はなんとなく付けただけのものなので改名した方がいいか考え中です。

 この三ヶ月間、日商簿記2級の勉強をしてきて、昨日、ついに合格を果たしました。勉強してきたことはこのブログに拙いながら記録していますので、興味があればご覧いただければと思います。

実は私、東大法学部卒なんです。

 実は私、二年くらい前にも漢検準一級に三ヶ月くらいで合格しています。

 漢検準一級といえば、なかなかの難関試験です。なんたって合格すると選ばれし漢検の会員になれるんだから。

 しかし、こんなのは私にとってお茶の子さいさいなのでございます。

 というのも、実は私、東京大学の法学部を卒業しているからなのです!!

「えー!」

「なんだってー!」

「すごーい!」

 そんな声が聞こえます……。

 なんでこんな自慢めいた話をするのかというと、これから、私がこれまでの人生で得てきた、勉強にまつわる教訓をこのブログで書いていこうと思うからなのです。

 三ヶ月ブログを書いてきたけどアクセスが伸びない。原因の一つは、自分の得意分野じゃなかったからだ。

 そう考えた私は自分の得意分野で戦うことにしました。

 そして、思いついたのが、勉強に関するブログだったのです!

 『ドラゴン桜2』を見ていて、人が自分の思い込みを取り払い、能力を開花させていくのは良いもんだと改めて思ったのもあります。

 私が短い人生の間で得た、いくつもの気付き。それはみんなにとっても役に立つものなのではないか?とかねてより考えていました。

 このノウハウを自分だけのものにしておくのは人類にとっての損失かもしれません。

 でも、ブログなら世界中と共有できる!

 というわけで、このブログを当面の間、学校の成績を伸ばしたいと思っている人、大学受験で良い大学に行きたいと思っている人が、なんらかの気付きを得られるブログにしていきたいと考えています。

 もちろん自分が考えているようなことはすでに誰かが発信しているはずです。というか自分で発見したと思っているだけで受け売りの可能性もあります。

 でも、一人だけが言っている言葉より、百人が言っている言葉の方が説得力があります。だったら、自分もその百人の中のひとりになったろうじゃないかという、そういう気概でございます。

 そして言葉に説得力を持たせるには、自分のバックボーンを明らかにした方がよいだろうと思い、改めて自己紹介をした次第です。

私の青春時代

 というわけで、ここからは、私がどのような道のりを歩んで東京大学文科一類に合格したのかを書いていこうと思います。

小学校編

 小学校に入学する前日、自分も『ドラえもん』ののび太みたいに先生に怒られる毎日がやってくるんだと泣いたのを今でも覚えています。

 自分の目の前には絶望しか待っていない。だって現実にドラえもんはいないんだから。

 たぶんそんなことを思って泣いたのでしょう。

 ところが、小学校に入ってみると意外な事実が判明します。

 私は同学年の誰よりも頭が良かったのです。おはじきを動かすスピードは教室で一番速かったし、ひらがな・カタカナの読み書きもできたし、作文で何を書くべきかもきちんと理解できました(小学校1年生ですからその程度のレベルです)。

 順調に成長した私は、小学四年生の時、中学受験を見据えた親に日能研に入れさせられます。

 そこでも私は非凡な才能を発揮。自宅で勉強したことなんてないにも関わらず、常に栄冠クラスに籍をおいていたのです。(要するに一番上のクラスにいたということです。)

 さすがに、受験が間近に迫ると自宅学習の必要性に気付きましたが、その甲斐あって全国でもトップクラスの中学に合格します。

中学・高校編

落ちぶれた中学1年生~中学2年生

 名門校に入った私は、当然のように平凡な存在になっていきます。

 試験は常に一夜漬けで乗り切る。宿題でもなければ、普段からの勉強なんてしない。

 最初は学年の上から30%くらいのところだった成績は徐々に落ちていき、中学2年生の頃には真ん中よりちょい下くらいまで下がってしまいます。

力を蓄えた中学3年生~高校1年生

 しかし、中学3年生になって始まった世界史との相性が良かった。

 世界史だけはなぜか学年トップ10の常連となり、これがきっかけか、成績が少しだけ持ち直してきます。

 それもあってか、「やればできる」という自信だけは常に持っていました。

 また、部活では卓球に打ち込んだことで、「努力しないと勝てない」ということを学びます。

 そんな中、世間では浅田真央フィーバーが巻き起こっていました。

 それにつられフィギュアスケートを初めてテレビ観戦した私は、中野友加里選手に恋をします。

 グランプリファイナルで良い演技をしたのにそれほど点数が伸びず、不満げな顔をするその態度に胸キュンしてしまったんですね。

 余談ですが私は昔から、トップクラスの実力者だけどトップにはなれないくらいの人が好きなんです。卓球だと馬琳とか丁寧とか。「いやいやどっちも金メダリストやんけー!」というツッコミが卓球ファンから来るに違いありませんが、馬琳も丁寧も金メダル取ったの私が卓球やめてからですからー!残念!!

 それはともかく、中野友加里を応援していく中で、あることを思います。

「世界で戦っている彼女にふさわしい人間になるには、何かで一番にならないといけない……!」

 もともと自分は東大に行く運命にあるのだと思いこんで生きてきた私でしたが、「東大に行く」という思いを改めて強くします。

覚醒した高校2年生

 私の母校では、高校二年生になるにあたり、クラス選抜が行われていました。

 成績が良い者だけを選りすぐったクラスがあったのです。

 しかし、今の成績では選抜クラスに入れないという事実に焦った私は、高校一年生最後の期末試験で猛勉強をします。

 その結果、学年でトップ30に入る成績を残します。

 私の学校では、当時40人前後の東大合格者を輩出していたため、これだけの順位であれば将来の東大合格は約束されているくらいの意味があります。

 「やればできる」は妄想ではなかった……。

 という感慨に浸ったものの、結局、選抜クラス入りは果たせませんでした。

 しかし、そこから私は覚醒します。

 学年トップクラスの成績を一度味わった私は、もう今までの平凡な成績は許せなくなってしまいました。

 毎日の勉強も苦ではありません。

 勉強すれば良い成績が取れるということも知っています。

 そうして何度も、学年トップクラスの成績を取った私は一学期遅れで選抜クラスに入ったのでした。

大学受験

 その勢いのまま、受験生になります。私は文科三類を目指していました。

 周囲も成績を上げてきて、相対的に順位は下がったかもしれませんが、秋の東大模試ではB判定をゲット。

 東大が手の届く場所にあったことは間違いありません。

 迎えたセンター試験

 これがあまりうまく行かなかった!

 東大受験生なら目指すのは90%越え。

 しかし、私の点数は86%(たしか)。

 センターの帰り道はうなだれて帰ったので思ったよりは良い点数で安堵しましたが、出遅れ感は否めません。

慶應法学部

 自分は東大に入るものだと思いこんでいた私は、滑り止めはほとんど受けませんでした。

 唯一受けたのが慶應法学部。慶應法学部ならまあ妥協してやってもいい、そういう考えです。

 しかし、東大合格のための勉強をしてきた私にとって、慶應法学部の試験は難しかった。

 出題傾向の違いは思っていた以上に重くのしかかり、あえなく撃沈。

 東大に合格するしかなくなります。

大受

 そして東大の入試を受けました。もはや当日の記憶はありません。

 合格発表の当日、本郷キャンパスに結果を見にいきました。

 それはもう、ドキドキしながら。

 結果は……私の受験番号はありませんでした。

 ずっと「自分は東大生になる」と思い込んで生きてきたのに。

 なんでしょう、あの感覚は。

 自分の心にぽっかり穴が空いたとでも言えばいいのでしょうか。

 そこにあるべきである数字が、ない。

 何度見ても、ない。

 この現実を受け止めなければいけない。

 でも、受け止めたくない。

 いや、まだ後期がある……(でも後期はそう簡単じゃない……)。

 そう思って、私は後期試験の一次合格者発表を見に行ったのですが、そこにも自分の番号はありませんでした。

 失意。絶望。

浪人時代

 そうして私は浪人生となり、河合塾の生徒となったのでした。

 初日に受けた試験では、私がクラストップの成績だったようです。

 それもそのはず。開示された東大受験の結果では、私の点数は合格最低点から0.56点差しか離れていませんでした。(たしかそのくらいでした。一点未満だったことは間違いありません。)

 実力はもう十分にあったのです。あとはちょっと伸ばせばいいだけ。

 とはいえ、ここで親からの命令が。

「浪人するからには文三じゃなくて文一目指してもらいまっせ!!」

 そんなぁ~!

 というわけで、ほどほどのプレッシャーを背負いつつ、のほほんと頑張りました。

 河合塾の授業は本当に良かったですね。受験に役立つとかではなく、人生の足しになったと思います。河合塾は良いところですよ、みなさん。

 東大模試は駿台はD判定だったものの、河合塾ではA判定。

 今はどうか分かりませんが、当時の駿台東大模試はかなり的外れというか、東大受験からかけ離れた内容だと感じていたので気にしませんでした(いや、ちょっと心には引っかかったかも)。

 そして忘れもしないセンター二日前。

 国語の過去問で140点台を叩き出します。

 これがどういう点数かと言うと、東大受験生としてはかなりやばい成績です。

 900点満点で810点以上取ることを目指しているのに、国語だけで60点を失うというのはかなりヤバい事態なのです。

 これには焦りましたね。

 が、その翌日。

 今度は国語の過去問で満点を取ります。

 国語の成績は悪くなかったものの、満点を取ったのはこれが初めてでした。

 初めての140点台と初めての満点が試験直前のこの時期に……。

 これは天啓でした。

「受験とは運である」

 ズガーンとその言葉が私の頭を撃ち抜いたのです。

 おかげで、センター試験当日はかなりリラックスして臨めました。

 これだけ頑張ってきて、それでだめなら仕方ない。

 今さらどんなにあがいても運命には逆らえない。

 たしかそんな感じの境地だったと思います。

 結果。

 たしか、センター試験の点数は92%ピッタリだったと思います。つまり828点。

 しかも、その年はセンター試験が難化してたんだったかなんだったかで、去年撃沈した慶應法学部、その他に慶應経済、早稲田の政経あたりにはセンター利用で合格することができました(そのラインナップだったか記憶が定かではないですが)。

 それで東大入試本番。ちょうどバンクーバーオリンピックの時期で浅田真央が金メダルを逃したんですよね。「浅田真央が可愛そうだ!」と怒りながら試験を受けた記憶があります。

 そして合格発表当日。

 やはりこの日はドキドキします。

 もう私立の合格は確保しているし、落ちたら天命だと思おうとしていたとはいえ。

 掲示板には私の番号がありました。

 一人確かめた私の元にアメフト部員はやってこず、胴上げもされませんでした。

 先に東大に入っていた高校の同級生と会ってキョドったり、入学のための書類の入った(?)紙袋をもらったり、その紙袋が重くて帰りに入ったとんかつ屋では手が震えてなかなか食べられなかったり……。

 そんな一日でした。

 さぞや嬉しかっただろうと思うかもしれませんが、意外にもそこに待ち受けていたのは落胆でした。

 東大に入れば何者かになれると思って東大合格を目指してきた私でしたが、いざ東大に合格したその瞬間に分かったのは、東大に受かろうが落ちようが自分は自分でしかないという現実でした。

 ゲームのようにファンファーレが鳴り響くわけでも、レベルが上がるわけでもありません。

 あるのはただ、東大に合格したという事実だけ。

 それに虚しさを覚えたのは、一般的には「合格の実感が湧かない」という言葉で表す感覚だったのかもしれません。

 その後については……今回は書くのはやめておきます。

 このシリーズが終わったら、また改めて書く機会があると思います。

まとめ

 と、少々の自慢を織り交ぜながら私の半生を振り返ってみました。(こんなもんをじっくり読むのは世界で私ただ一人にちがいありません。)

 この中で得た学びは少なからずあります(実は上でも少し触れています)。

 大学入学後に、受験生時代にこれを知っていれば!と思ったことも色々あります。

 それらはきっと多くの人に通ずるものだと信じています。

 私が誰かの代わりに勉強してあげることはできませんし、実践的な知識を与える能力も持っていません。

 しかし、一つのきっかけで世界の見方が変わって飛躍する。そういうことがあるとおもいます。

 そういうきっかけを与えられるブログにできればいいなと思っています。