前回、歌詞について考えたことを書いた。
weatheredwithyou.hatenablog.com
今回はこれに基づいて具体的な歌について考えてみたいと思う。選んだのはヨルシカの『晴る』だ。
理由は好きだから。これに尽きる。
『晴る』はアニメ『葬送のフリーレン』の第2クールの主題歌だ。ちなみに『葬送のフリーレン』の放送が終わってからもう一ヶ月以上経つ。なのに、今になって猛烈にこの曲が好きになってしまった。ヨルシカのライブ行きたい。
この世の歌は
- ラブソング
- 失恋ソング
- 応援ソング
のいずれかに分類することができる。
では、『晴る』はどれなのか。まずここが難問である。
いきなり「貴方」が登場する。ということは、ラブソングか失恋ソングか。
貴方は風のように
目を閉じては夕暮れ
何を思っているんだろうか
うーん、なんだかよく分からないが、「貴方」の思考を気にしていることから、これは「追究」の技法を使っていると考えることもできる。
次を見てみよう。
目蓋を開いていた
貴方の目はビイドロ
少しだけ晴るの匂いがした
やはりよく分からない。どうやら「貴方」の目がビイドロのようにきれいであるという話にも見える。
さらに進めてみよう。
晴れに晴れ、花よ咲け
咲いて晴るのせい
降り止めば雨でさえ
貴方を飾る晴る
さあ、いよいよもって分からない。なんだかずっと天気の話をしている。これはどう解釈すればいいのか。
胸を打つ音よ凪げ
僕ら晴る風
あの雲も越えてゆけ
遠くまだ遠くまで
さて、ここまで来ると「これはラブソングや失恋ソングではないのでは」という疑念が湧いてくる。
先ほども書いたが、ずっと天気の話をしている。貴方はどこかへ消失してしまっている。これがラブソングだとするとかなり異質である。
となると、この歌は応援ソングだということになる。特に「あの雲も越えてゆけ 遠くまだ遠くまで」は応援ソングの「行動」を促すための頻出ワード「越える」「遠く」が登場する。よし、その線で行ってみよう。
応援ソングで歌われる内容は以下のとおりである。
- 行動
- ビジョン
- 原体験
- 衝動
- 実現可能性
- チャンス
- 仲間
- 未知の領域
- 無知蒙昧
- 苦難
- 臥薪嘗胆
- 自分軸
- 孤独
- 比較
- 人生の短さ
上に挙げた歌詞はこれらのいずれかに分類できないか考えてみよう。
胸を打つ音よ凪げ
僕ら晴る風
これは「衝動」と考えることができそうだ。歌の主人公は、胸が高鳴っており、風のように軽やかな気持ちになっている。
面白いのは「胸を打つ音よ凪げ」と述べていることだ。普通の歌では、ここで「凪げ」のようなことは言わない。なぜならば、応援ソングでは衝動は肯定されるべきものだからだ。それなのに、この歌では衝動を抑えようとしている。おかげで主人公の衝動が弱まった印象があるかといえばそんなことはない。むしろ「この胸よ高鳴れ!」的なことを言うよりも遥かに強い印象を受ける。「凪げ」という言葉が、抑えねばと思ってしまうほど強く心臓が胸を打っていることや、抑えようとしてもなお静まらない興奮を物語っているからだ。
言葉とは面白いものだ。命令は、現状が命令内容に反している印象を与えてしまう。「勉強しなさい」と言われれば、「お前は勉強をしていない」と言われているように感じる。「便器を汚さないでください」と言われると「お前は便器を汚している」と言われたように感じるものだ。
降り止めば雨でさえ
貴方を飾る晴る
次に、この部分について考えてみると、これは「苦難」だ。しかも、良薬は口に苦しに発展しているパターン。
雨がやんで晴れれば、空には虹が架かる。雨が降らないと虹は架からない。これと同じで、苦難が貴方の糧になるのだ、と言っている。内容は平凡だが、表現がお洒落すぎる。歌詞は、何を歌うかよりも、どう歌うかが重要なのだ。
晴れに晴れ、花よ咲け
咲いて晴るのせい
さあ、ここまで来れば「雨=苦難」「晴れ=夢の実現」の図式が見えてくる。この歌、やたら風景描写が多いと思ったら、全てはメタファーだったのである。(当たり前のことだが。)
というわけで、ここは「願望」を歌っている。
目蓋を開いていた
貴方の目はビイドロ
少しだけ晴るの匂いがした
この部分は、「少しだけ晴るの匂いがした」から考えるに、衝動の発端、すなわち「原体験」を歌っているものと考えることができる。
貴方は風のように
目を閉じては夕暮れ
何を思っているんだろうか
ここはやっぱりよく分からん。
人を風にたとえるときは、その人はもう出会えない人(≒死者)であるのが一般的だ。この点については、上の原体験パートとリンクするので、その線で考えてよいと思う。
それはいいとして、「目を閉じては夕暮れ」ってどういうことだ? ここが難しい。解釈の一つとして思いつくのは、「貴方」は空であるということだ。「降り止めば雨でさえ貴方を飾る晴る」なのだから、虹で飾られるものが「貴方」。つまり空。もう一つ思いついたのは、「貴方」が黄昏れていることを描いているという解釈。意味としてはこちらの方が通るか。
いずれにせよ、分類としては「無知蒙昧」か「未知の領域」のいずれかであることはほぼ間違いないと思う。一番の歌詞はポジティブなので、おそらく「未知の領域」について語っているものと思われる。貴方が思っていること=晴れなのだ。
一番の歌詞はポジティブと書いたが、二番の歌詞はその逆。こちらでは苦難について語られる。
貴方は晴れ模様に
目を閉じては青色
何が悲しいのだろうか
さて、この部分で先ほどの解釈の一つが切り捨てられ、一つが補強されそうだ。「貴方=空」説はないと言っていい。意味が通らない。(雨=青色と考えることができるなら生き残りの余地はあるが無理筋だろう。)逆に、「夕暮れ=黄昏れ」説はなお生きている。「目を閉じては青色」は、「貴方」がブルーな気分になっていることを表しているものと思われる。どちらも「目を閉じては〇〇」の〇〇が「貴方」の様子を表しているから、説は補強されたように感じる。
目蓋を開いている
貴方の目にビイドロ
今少し雨の匂いがした
先ほどは原体験となったパートが、今度は苦難の前触れを歌っている。
泣きに泣け、空よ泣け
泣いて雨のせい
降り頻る雨でさえ
雲の上では晴る
ここは「実現可能性」。かつてここまで力強く泣くことを促した歌があっただろうか。面白い。それに、「辛いときは泣いていいんだよ」というお決まりのメッセージを、「泣くのは雨のせいであってあなたが弱いからじゃない」というところまで言っている(ように私には感じられる)。「だって涙が出ちゃう 女の子だもん」*1の真逆である。
「降り頻る~」の表現はお洒落だし、延々と天気の話をしているこの歌だからこそ一層光る。
土を打つ音よ鳴れ
僕ら春荒れ
あの海も越えてゆく
遠くまだ遠くまで
ここで空から地面への視点移動が行われる。この瞬間、歌詞で描かれている世界が一気に(あるいは明確に)空間的広がりを獲得する。奇しくも、前回書いた『星間飛行』と同じことが行われている。
と同時に、ここで初めて季節の概念が導入される。ここまで歌われていたのはあくまで天気の話であって、春の話は全然してこなかったことに注意されたい。
通り雨 草を靡かせ
羊雲 あれも春のせい
風のよう 胸に春乗せ
晴るを待つ
先ほどさらっと登場した春荒れはネガティブイメージがメインの言葉だが、そこには春の到来というポジティブイメージもある。ここではそこに目を向けている。
羊雲は雨の予兆であると同時に、春の到来を告げてもいる。雨も所詮は通り雨に過ぎない。春と晴るへの期待感が高まる。
要するに、衝動が苦難を上回る状態を歌っているわけだ。
晴れに晴れ、空よ裂け
裂いて春のせい
降り止めば雨でさえ
貴方を飾る晴る
ここは一番とほぼ同じ。
「春のせい」と漢字が変化するのは、「空よ裂け」がそのまんま晴るを意味しているから。ここで言う空とは曇り空のことである。「裂いて晴るのせい」だと「晴れるせいで晴れる」という意味不明な文になってしまう。
「貴方を飾る晴る」が変化しないのは虹と春は関係ないから。
胸を打つ音奏で
僕ら春風
音に聞く晴るの風
さぁこの歌よ凪げ!
春が来て、ようやく晴るも来た。というところまでは間違いない。問題はなぜ「この歌よ凪げ」と言うのか。
「胸を打つ音よ凪げ」と同様に、あえて「凪げ」ということで歌がやまないことを強調したのだろうか。可能性としてゼロではないが、ここまでの展開を踏まえるとあまりしっくりこない(ここはストレートに行ってほしい。)し、一度使った大技をまた使うのは芸が無い気が若干する。
私が考える解釈としては「待望していた未来は今になったからもう願う必要はない」というものが一つ挙げられる。この歌は晴るを願う歌だ。ただ、この解釈だとここからアカペラが続く意味が分からない。「歌」を楽器の演奏に限定する、または「凪げ」を静まる(音がなくなるわけではない)程度の弱い意味として捉えれば成り立つ余地はある。前者だとすると、この歌の演奏は雨を表現しているのだと考えることもできてちょっと良い感じではあるが、歌は声を意味するのが普通だから釈然としない。
ここで「音に聞く晴るの風」をもっと生かした解釈をしたい。
「音に聞く」は名高いといった意味だ。「晴るの風」を有名だと述べるということは、主人公は晴るを経験したことがないのであろう。これが現実ではなく心象風景だと考えれば、しかも「晴る」=「夢の実現」だとするならば、ほとんどの人はそうなのかもしれない。「音に聞く晴るの風」の意味はこれで完結している。
だが、もし「晴るの風の音を聞く」という意味もここに込められているとしたらどうだろう。僕らは春風だ。この歌=春風は凪いで、晴るの風の音に耳を澄ませてみよう。という風に「さぁこの歌よ凪げ!」を理解することが可能になる。この説を裏付けるように、YouTubeの公式動画の公式字幕では、"Hear the sound of a sunny wind. Now let this song calm down!"と表記されている。(最初からそれを見ておけば良かった……。)ここまでは春風の歌。ここからは晴風の歌だというわけだ。
晴れに晴れ、花よ咲け
咲いて春のせい
あの雲も越えてゆけ
遠くまだ遠くまで
春は花が咲くのを晴るのせいだと思っていて、晴るは春のせいだと思っている。相思相愛。
というわけで、すべての歌は恋愛ソングか失恋ソングか応援ソングに分類できる理論に基づけば、一見難解な曲もわりと簡単に理解できるようになる。ではなぜ『晴る』が難解に見えるのかといえば、あらゆる感情を情景に託しているからである。情景を巧みに描く名曲はあるが、これほど情景描写に徹しているのはかなり珍しい。たぶん。スピリットオブ俳句。その点を除けば、一般的な応援ソングと構成要素は変わらない。『晴る』の歌詞の魅力は、徹底的な自然の情景描写にあると言って間違いない。そこをベースにして、様々な言葉遊びが生まれている。
前回も書いたように、応援ソングとは夢について歌ったものではなく、未来について歌ったものだ。だから、『晴る』にラブ要素がないと考える必要は全くない。上の解釈に従っても、フリーレンとヒンメルの関係を歌ったものだと考える余地は十分にある。
『葬送のフリーレン』は失恋ソングアニメである。つまり、過去を思うことに面白ポイントを見出しているアニメだ。『スタンド・バイ・ミー』だとか『アメリカン・グラフィティ』だとか『ALWAYS三丁目の夕日』だとか『おもひでぽろぽろ』などのノスタルジー喚起型映画の系譜に連なる(『ALWAYS三丁目の夕日』は見たことがないのでもしかしたらぜんぜん違うかもしれない)。
「過去を思い出す」という行為それ自体がエンターテイメントになりうる。人間は思い出話が大好きだし、歴史を学ぶことも大好きだ(機械的な暗記を強いられなければの話だが)。
『葬送のフリーレン』が画期的なのは、思い出される過去がリアルなものである必要はないと看破したことにある。フリーレンが思い出す過去は、剣と魔法の世界のファンタジーで我々にとっては縁もゆかりもないお話である。だが、そんなことはどうでもいいのだ。考えてみれば、我々の多くはアメリカの1959年のオレゴン州を生きたことなど一瞬たりともない。それでも『スタンド・バイ・ミー』からはノスタルジーを感じてしまう。であれば、ファンタジー世界を舞台にした『スタンド・バイ・ミー』だって成立しうるに違いない。それを証明しているのが『葬送のフリーレン』なのだ。(回想が多用される点では『おもひでぽろぽろ』に近い。)
特に第一クールにおいて、フリーレンたちの旅は、ヒンメルたちとの思い出を回想させるためにあるといってもよいほどだった。各話のクライマックスの前には、ほぼ必ず回想が挟まれている。ヒンメルたちの残像を辿る旅なのだからまさに失恋ソングさながらである。
ところが、第二クール。一級魔法使い選抜試験に入ると、回想が一気に少なくなる。フリーレンは存在感を示しつつも、物語の焦点は明らかにフェルンをはじめとする若き魔法使いたちに当てられている。これまで過去を思い出すことに楽しみを見出していたアニメが、未来を描き始めたのだ。
さあ、第二クールの主題歌『晴る』は、過去と未来のどちらを見ていたか。そう、未来である。第一クールの主題歌『勇者』は失恋ソング(過去志向の歌)にカテゴライズできる。『勇者』と『晴る』の趣の違いは、見事にアニメ本編の内容の変化を反映していたわけだ。若きアーティストたちの感性の鋭さが恐ろしい……。
ちなみに、この記事で一番の歌詞を後ろから遡って解説したのもやはり『葬送のフリーレン』リスペクトによるものである。そういうことにしたい。