たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

『ゴールデンカムイ』について考える

 『ゴールデンカムイ』の実写映画が昨日公開されたが、観に行く気も起きないので原作の『ゴールデンカムイ』がどういう構造の作品なのかを改めて考えてみたい。

 

 『ゴールデンカムイ』のストーリーを一言でまとめれば「お宝探し」である。しかも宝とは黄金を指す。ここだけ切り取ると、古典的な物語といえる。

 『ゴールデンカムイ』の独自性は、主人公たちが探すべき物が宝それ自体ではなく、宝の地図であることにある。さらにその宝の地図は生きている。人間に入れ墨として描かれているのだ。

 ここで重要なのは、人間はあくまで宝の地図であって、宝それ自体ではないことだ。「宝=人間」の物語もけっこうよくあるパターンだ。この場合、登場人物が宝を手に入れられるかどうかは、宝である人物の心を射止められるかどうかにかかってくることになる。つまり、人間が宝それ自体である場合、武力がそれほど役に立たない。

 ところが、『ゴールデンカムイ』においては、人間はあくまで地図でしかないわけで、なんなら地図が人間の背中に貼り付いているに過ぎない。したがって、武力が極めて重要な意味を持ってくる。宝の探索者は、地図となっている人間(以下では「囚人」という。)の心を射止める必要はなく、殺害してしまえばいいからだ。

 これが登場人物の性格を浮き彫りにする機能を持つ。『ゴールデンカムイ』において、必然的に主要人物は以下の3つのグループに分けられる。

  1. 囚人を人間として扱うグループ
  2. 囚人を物として扱うグループ
  3. 囚人

 当然、主人公たち(=杉元たち)は1番のグループ、敵(=鶴見中尉たち)は2番のグループになり、囚人たちには第3勢力としての役割が割り当てられることになる。

 また、忘れてならないのは、この残酷なシステムを生み出した人間(=のっぺらぼう)が存在することだ。この人物を上記3つのグループのいずれと結合させるのが面白いのか考えれば、順当に考えれば2番のグループになるわけだが、これでは当たり前すぎて面白くない。したがって、1番のグループの一人とのっぺらぼうが強い関係を持つこととなる。

 

 ただし、ここまでの話は『天空の城ラピュタ』と同じである。ラピュタを指し示す飛行石を持っている少女シータを、パズーは人間として扱い、ムスカは物として扱うという構図だ。

 ところが、『ゴールデンカムイ』と『天空の城ラピュタ』は似ても似つかない。両者を分かつものは、囚人の人数だ。

 『天空の城ラピュタ』は映画サイズでストーリーを展開しなければならないためであろうか。いやきっとボーイミーツガールをやりたかったからだろう。囚人に当たる人物はシータの一人であった。

 対して、長期連載を目指していたであろう『ゴールデンカムイ』は囚人を複数用意した。散らばった複数の囚人を追いかける話を展開するとなると、必然的に主人公たちは長期的な旅をすることになる。物語がロードムービーめいてくるのである。

 ロードムービーにおいて重要なのは「拠点がない」ということだ。それは主人公たちの孤独を表すことになる。

 したがって、主人公である杉元佐一とアシリパは孤独な身の上にあり(もちろん孤独の度合いはそれぞれ異なる。)、旅の中で二人は家族になっていく。これを象徴するシーンとして『ゴールデンカムイ』にはグルメ漫画のような食事シーンが挿入されるというわけだ。

 敵対する鶴見中尉グループまで同様の存在として描くかどうかは判断が分かれてよいところであろうが、作者は彼らも孤独で家族的なグループとして描くことにしたようである。結果的に、杉元グループと鶴見グループが対比されることで物語の深みが一層増したのではなかろうか。囚人を人間として捉えるか物として捉えるか、という両者の基本的なスタンスの違いがここで効いてくるのもポイントだ。

 ここで『黄金』のことを思い出してみると、あの映画の中で黄金は人間関係を破壊するものとして描かれていた。分不相応な富が人生を破綻させるというのは一般的な観念でもある。人類にとって最も基本的な人間関係は家族であるから、黄金と家族は強く結びついていると考えることもできる。そういうふうにして考えていくと、『ゴールデンカムイ』が家族を巡る物語となった(=鶴見グループも孤独な人間たちによる家族的な組織となった)のはむしろ必然かもしれない。

 ただ、この点を踏まえてもなお、結局『天空の城ラピュタ』と被ると言えないわけでもない。パズーやシータだって孤独な存在だったわけで、彼らも家族経営の海賊団と合流している。結局のところ、『ゴールデンカムイ』を『ゴールデンカムイ』たらしめているのは日露戦争直後という時代設定だとかヒロインをアイヌにしたことだとかにある、ということもできる気はする。

 

 以上をまとめると

  • 宝の地図が人間に彫られていること
  • 宝の地図が彫られた人間が複数人いること

この二つの要素が『ゴールデンカムイ』の大まかな骨格を形作っているということが言えそうな気がする。もちろん上記の要素を備えながらも『ゴールデンカムイ』と構造的に全く異なる作品を作ることも可能に違いないが、おそらくたぶんきっと『ゴールデンカムイ』ほどの完成度には至らないだろう。

 それだけ『ゴールデンカムイ』は精緻な構造をしているわけだが、もしかしたら映画と違い長期連載の漫画にとって、これは逆に欠点となりうるのかもしれない。というのも、『ゴールデンカムイ』には第4の勢力として、尾形百之助が登場するからだ。彼の目的は物語の終盤まで明かされず、そのポジションが曖昧だ。彼が場をかき回してくれるおかげで、先の展開が読めなくなる。もちろん尾形は家族というテーマに関わる人物なのだが、黄金獲得競争の要素からは彼の存在は導き出せない。実に面白いキャラクターだ。