たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その90 地獄の黙示録

 完全無欠の軍人がイカれちゃったので殺しに行きます★

 

 『地獄の黙示録』は1979年の映画。監督はフランシス・フォード・コッポラ。脚本はフランシス・フォード・コッポラジョン・ミリアスマイケル・ハー。主演はマーティン・シーンアカデミー賞は撮影賞と音響賞を受賞。

 

 前回、「すべての物語は権力(=価値あるもの)の変化を描いている」という仮説について書いた。

 今回も、この仮説に基づいて書いていく。それにより、この仮説から導き出される、映画を特徴づける要素を考えていきたい。

権力のありかをどう表現するか

 『地獄の黙示録』は誰の権力について描いているのだろうか。

 主人公であるウィラード大尉だろうか。しかし、彼自身はこの映画の中で何かを得たり、逆に失ったりしたものがない。ミッションを達成したことで昇進が見込めるものの、それは明らかに重要ではない。彼は語り部にすぎないのだ。

 では、敵であるカーツ大佐だろうか。たしかに、自分の王国を築いて権力を得ていた彼は、殺されてその権力を失ってしまう。だが、もしそうだとすれば説明できないことがある。カーツ大佐が登場するのはこの映画の終盤である。それまでのシーンはカーツ大佐に関係がないとは言えないものの、繋がりは弱い。では、この映画の大半は本筋と関係がないというのか。そんなはずはない。

 答えは、映画の前半において何が描かれていたかを考えることで見えてくる。『地獄の黙示録』において最も印象的なシーンといえば、ワルキューレの騎行をBGMに騎兵隊がベトナムの村を焼き払うシーンだろう。このシーンにおいて、アメリカ軍は鮮やかな勝利を収める。勝利は権力の強さを示すアメリカが強大なパワーを持っている、というのがこの映画の初期状態というわけだ。

 というわけで、この映画はアメリカのパワーの変化を描いている。強いアメリカが序盤で描かれたわけだから、物語はそれが衰える方向に進んでいく。強大な米国が弱小国と思われたベトナムに敗北するベトナム戦争そのもの。これがこの物語の核である。

 もちろんアメリカの権力そのものを映すことはできないから、登場人物たちにそれが仮託されている。カーツ大佐の死はアメリカの敗北を示唆している。

権力のありかが変化するきっかけ

 権力が変化するには、きっかけが必要だ。多くの物語できっかけになるのがである。犯罪はパワーを得る手段であることもあるが、罪を犯せば裁かれるからパワーを喪失する端緒になる。

 『地獄の黙示録』でも、主人公たちが無実のベトナム人たちを虐殺するシーンが映画の転換点になっている。このシーンを境に、ウィラード大尉たちはベトナム軍に襲撃され仲間を失っていく。また、カーツ大佐もその罪を問われたがために、暗殺者としてウィラード大尉が差し向けられる。

 登場人物が罪を犯すとき、大抵の物語ではその人物の欲望を掻き立てる何かが存在する。たとえば、金のために保険金殺人を犯すみたいな。だが、戦争映画ではそういったものは必要ない。戦争という舞台設定が犯罪発生装置として機能するからだ。

 ちなみに、『アラビアのロレンス』や『戦場にかける橋』のように、戦争の中で何か建設的なことをしようとした人物のパワーを削ぐという、キングボンビー的な機能も戦争にはある。

もう一つの権力

 物語は権力の変化を描くものであるが、しばしば表向きの権力の裏に別の形の権力が存在する。たとえば、『桃太郎』は地域の支配権を巡る人間と鬼との闘争を描いた物語だが、桃太郎は鬼に勝利することに伴い、鬼の所有していた金銀財宝までも獲得することになる。あるいは、『シンデレラ』は男を巡る女たちの争いを描いているが、シンデレラは戦いに勝利して男を獲得すると同時に、王子の妻というポジションを獲得する。

 このように、二つの権力が強く結びついているがゆえに、片方の権力を獲得することでもう片方の権力もゲットできるパターンがある。スポーツの大会で勝利を目指した結果、かけがえのない仲間ができる、みたいなのもこれに当たる。

 一方で、片方の権力を得るにはもう片方の権力を代償にしないといけないパターンもある。たとえば、ホロコースト下でユダヤ人の命を救うために全財産をなげうつとか、マフィアのボスとしての地位を盤石にしたら家族の愛が失われてしまうとか。

 『地獄の黙示録』は後者のパターンだ。戦争の勝利の代償に失われるものがある。理性だ。

 ナパーム弾で森を焼き払っている最中にサーフィンを敢行するキルゴア中佐、慰問に来たダンサーたちに襲いかかる軍人たち、無実のベトナム人たちを虐殺したウィラード大尉たち、司令官の存在しない軍隊……いずれもおよそ理性的とは言い難い。カーツ大佐も「ベトナム人が強いのは理性が存在しないからだ」みたいなことを言う。

 ベトナム戦争に勝利するにはベトナム人を上回る狂気に染まらなければならない。戦争をするというのはそういうことなのだ。にもかかわらず、まるで理性的な戦争というものが存在するかのようにカーツ大佐の暗殺を決定した上層部。本当にカーツ大佐は殺すべき人間なのか? ウィラード大尉はここに葛藤するのである。

 結局、ウィラード大尉は、カーツ大佐に促されるような形で、理性を優先させることを選ぶ。アメリカは敗北を選んだのだ。

権力の移動を何によって表現するか

 表面的な価値(=戦争の勝利)よりも真の価値(=理性)を選んだ、となると普通はハッピーエンドになるはずだ。だが、『地獄の黙示録』の結末にハッピー感は皆無である。その理由はおそらく、理性を選択したことが、カーツ大佐の殺害によって表現されているからだ。

 権力の獲得や喪失は目に見えないから、具体的なイベントによって表現されなければならない。そのイベントをどんなものにするかは作品のテイストに大きく関わってくる。

まとめ

 とまあ、こんな感じである。権力関係の変化という観点で映画を見ると、以下が重要なポイントとして浮かび上がる。

  • 権力の形
  • 権力のありかをどのように表現するか
  • もう一つの権力
  • 権力が移動するきっかけ
  • 権力の移動をどのように表現するか

video.unext.jp

余談 『プラトーン』と『地獄の黙示録』の違いについて

 上の観点で考えると、『プラトーン』と『地獄の黙示録』はほぼ同じ映画だ。各要素が一致している。

 当たり前だが、二つの作品には違う趣がある。観ている最中は、「『プラトーン』みたいな話だなぁ~」なんて全く思わなかった。何が違いを生み出しているのだろうか?

 まず、『プラトーン』の特徴は、理性を象徴する人物を置いたことにある。『地獄の黙示録』には理性的な人間など登場しない。『プラトーン』の方が分かりやすいが、『地獄の黙示録』の方がよりシビアで、より俯瞰的な気がする。

 また、『地獄の黙示録』は、船に乗って移動する乗り物映画である点が特徴的だ。物語の流れが川の遡行によって視覚化されているので分かりやすいと同時に、ちょいとばかしアトラクションみがある。そしてやはり、『プラトーン』に比べるとスケールが大きい感じがする。(ちなみに、『地獄の黙示録』の製作費は『プラトーン』の5倍以上のようだ。スケール感にはお金がかかるらしい。)

 同じ乗り物映画に『アフリカの女王』がある。が、これもやはり『地獄の黙示録』とだいぶ趣が異なる。構成要素が全く違うのだ。

 つまり、『プラトーン』と『地獄の黙示録』は、構成要素は同じだが語り口が違う。『アフリカの女王』と『地獄の黙示録』は、構成要素は違うが語り口が同じ。という関係にある。