たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その85 時計じかけのオレンジ

 非行少年を「治療」して暴力の振るえない人間にします。

 

 『時計じかけのオレンジ』は1971年の映画。監督・脚本はスタンリー・キューブリック。主演はマルコム・マクダウェル

 

 映画のつかみの鉄板としてよく用いられるのが次の三つだ。

  • 金!
  • 暴力!
  • セックス!

 どうやらこれらの三要素は人間の快楽と深く強い関係があるらしい。ちなみに、ここでいう金には貧困も含まれるし、暴力は死としたほうが正確だろう。それから重要度でいえば、死>性>金の順になると思う。

 一方で、これらは不道徳なものでもある。嫌悪感を持つ人も多いかも知れない。いずれにせよ、強い感情の動きを喚起するものであることは間違いない。

 これら金!暴力!セックス!が悪徳であると同時に強烈な魅力を持っていること、それ自体をテーマにした作品が『時計じかけのオレンジ』だ。当然、映画は金!暴力!セックス!のオンパレードになるので、(本能に素直になれば)面白くないわけがない。

 

 冒頭から、主人公のアレックスは女体をかたどった像(乳首からミルクが出る)が陳列されているコロヴァ・ミルク・バーで異様に悪い顔をしているし、浮浪老人にトルチョックかまし、デカパイのデボチカをフィリーしようとしているドルーグにトルチョックかまし、金持ちの家に押し入ってフィリーし……という具合である。

 育ちの良いアレックスはベートーヴェンを愛しており、その点において仲間と価値観が合わない。持ち前の暴力性を発揮して仲間を従わせようとしたアレックスは仲間割れを招き、無事に刑務所に収監されることになる。

 ここから始まる中盤では、画面上からアレックスの剥き出しの暴力性は後退し、代わりに刑務所の美的に儀式化された暴力性が前に出てくる。看守はアレックスに暴行を加えないものの、怒鳴り声で彼を支配しようとする。これも暴力の一種であるが、囚人を管理するためという大義名分のもとにそれは許されている。また、看守の洗練された所作は美しささえ感じさせるのだ。

 アレックスは、早く釈放されるために人格を矯正するための治療を受けることにする。医師たちは、器具で彼のまぶたを固定し(ぜったい痛い)、バイオレンスな映像を無理やり見せる。あらかじめ投与された薬によって、アレックスは強烈な吐き気を覚える。これを繰り返すことにより、アレックスは条件反射的に暴力や性行為、ついでに大好きなベートーヴェンの第九に対して嫌悪感を持たざるを得なくなるのだ。

 この治療は、刑務所にかかるコストを抑えようという目論見で内務大臣が推進しているものだった。目をかっぴろげられているアレックスの図は、この映画でおそらく最もセンセーショナルな映像だが、ここには科学と政治の持つ暴力性が表されている。

 出所を果たしたアレックスであったが、親には見放され、かつての被害者や仲間たちに復讐されても抵抗すらできない。かつて襲った家の主に救われるシーンを挟んで味変してから、やっぱり正体がバレて再び復讐される。密室で第九を聞かされる拷問を受けたアレックスは、ついに自殺を図る。

 この事件は政権に致命的な打撃を与えることになりかねなかったため、内務大臣の粋なはからいによりアレックスは命と同時に本来の人間性を取り戻す。またもや異常に悪い顔で笑うアレックスであったが、観客はその背後に、彼がちっぽけに見えるほど巨大な、国家権力の持つ暴力性を見ることになる。

 

 エスカレートする暴力を見て、我々は快感を覚える。自覚的かもしれないし、無自覚的かもしれないが。

 女医がアレックスに対して吐き捨てるセリフは、我々の心にもグサッと突き刺さる。

「(暴力を見ると)健全な人間は恐怖と吐き気で嫌悪感に反応するわ」

 す、すみません。トルチョックに興奮している自分がいました!

 ということは、『時計じかけのオレンジ』を楽しんでいる我々もまた「健全な人間」ではないということか? 「健全な人間」の世界では、金・暴力・セックスを売り物にする映画は許されないのかもしれない。想像するになんとも味気ない世界である。その世界には『鬼滅の刃』も『千と千尋の神隠し』も『君の名は。』も存在し得ない。

 1971年はまさにアメリカン・ニューシネマの時代。ハリウッドがバイオレンスとエロを解禁し始めていた頃だ。それ以前のハリウッドは、建前上は、まさに味気ない世界を目指していた。(当然、サイレントの時代から名作は数多くある。が、それも結局は自主規制の中でどうにかして金・暴力・セックスを表現しようという試みの成果だ。)

 そう考えてみると、映画監督であるスタンリー・キューブリックがアレックスに一定の共感や同情を覚えるのは当然のことだったに違いない。

 果たして、アレックスは悪逆非道なアレックスのままでいいのか? それは分からない。だが、我々の中にも小さなアレックスがいることは自覚しておいた方がよいかもしれない。