たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その80 オズの魔法使

 家出した少女は謎の世界に飛ばされたので家に帰ろうとします。

 

 『オズの魔法使』は1939年の映画。監督はヴィクター・フレミング、脚本はノエル・ラングレーフローレンス・ライアソンエドガー・アラン・ウルフ。主演はジュディ・ガーランドアカデミー賞は作曲賞と歌曲賞を受賞。

 

 言うまでもなく、『オズの魔法使』は冒険ものである。そしておそらくは冒険もののセオリーとも言うべき要素を備えている。

  • 主人公は強い願いを持っている。
  • 賢者が願いを叶えるために目指すべき目的地を示す。
  • 主人公は旅を始める。
  • 悩める頼りない仲間に出会う。
  • 邪悪で強大な敵がいる。
  • 主人公には邪悪な敵に対抗するための力がある。
  • 力とは魔法のアイテムである。
  • しかし、主人公はアイテムを使いこなすことができない。

 必ずしもこれらの要素のすべてを満たしているわけではないが、おおまかには『桃太郎』や『西遊記』も同じ系統の物語といえるだろう。

 『オズの魔法使』は、それのアメリカ版である。舞台がカンザスであるというところにそれは現れているし、藁でできたカカシ、ブリキ人間というキャラクターもそこからの派生だ。さらにいえば、敵が国家の支配者であるという点も近代以降の作品という感がある。他にも色々アメリカならではのおとぎ話を感じさせる要素が多い。ちなみに、世界の竜巻の75%がアメリカで発生しているなんて情報もネットには転がっている。その数値がどれほど信頼できるかはともかく、ドロシーが竜巻で吹き飛ばされるという設定にもアメリカっぽさがあるのは間違いない。

 実はその点が最も重要な点なのかもしれない。つまり、ファンタジーに必要なのは国籍性なのである。料理と同じだ。缶コーヒーだって「満たされるブラジル」と書いてあるとなんだか美味しそうに感じる。ファンタジーも何かの国に満たされていた方がいい。『オズの魔法使』は意外に冒頭の現実パートが長いが、そのことによって当時のアメリカと無縁な観客もアメリカのイメージを共有できる仕組みになっている。

 『オズの魔法使』といえば、"There's no place like home"(やっぱ家が一番っしょ)というセリフが有名だが、これは「大切なものはすでに手元にある」という意味だ。脳みそを欲していたカカシは登場早々に「なぜ脳がないのに話せるの?」と疑問を呈される。話せる時点ですでに知恵は持っているわけである。そのことをカカシは旅の中で証明し、自覚していく。最終的にカカシはオズの魔法使いから大学の卒業証明書(偽造)をもらうことで悩みが解決される。(「結局、世界というのは人間の認識でできている」という世界観が根底にある。はず。この認識を操作するための装置を用意するところが面白い。)

 そこで思い出す映画が『千と千尋の神隠し』だ。『千と千尋の神隠し』を千尋が成長する物語だと思いこんでいる人が多いが、千尋は成長したわけではなく、もともと持っていた力を解放させていったにすぎない。また、『千と千尋の神隠し』も極めて現代日本的な(つまり有国籍な)雰囲気を持つファンタジーであることにも注目したい。

 有国籍的な世界を確立さえできれば、細部ははっきりいってどうでもいい。たとえば困難を解決するのに観客が驚くような冴えたやり方はいらないのである。ケシの花畑で倒れたドロシーを助けるのは優しい北の魔女でいいし、西の魔女を倒せるのは「カカシを助けるためにぶっかけた水がたまたま魔女の弱点でもあったから」でいいのである。そんなことは『オズの魔法使』の魅力をちっとも損なわない。いやむしろその雑さが魅力とさえ言ってもいいくらいだ。

 ついでに言えば、今の時代から見れば、セットや特殊メイクなんかは絶妙にちゃちい感じがあるが、異世界はドロシーの夢であろうというストーリー構造がそのちゃちさを包み込んでいる。逆に、人工物ゆえの派手な色合いが、当時まだ珍しかった映画の中の色彩を強調することに成功してもいる。そして、ジュディ・ガーランドのかわりになる女優は存在しない。最新の技術を用いれば、これよりはるかにクオリティの高い映画を作ることは容易だし、すでに作られてもいるだろうが、『オズの魔法使』はきっとこれからも唯一無二の名作であり続けるに違いない。時代性と地域性こそが普遍性を生み出すのだ。