高級店が居並ぶ六本木ヒルズ。中心には238メートルの森タワーが聳えている。その最上階に鎮座するのが森美術館だ。
そこで今、建築家・藤本壮介の企画展が開かれている。
藤本壮介は2025年大阪・関西万博の会場デザインプロデューサーであり、大屋根リングの設計者。今を時めく建築家である。
素晴らしい展示会だったので感想を書いていきたい。
憎むからこそ理解したい。
前提として、私は大阪万博を憎んでいる。万博に行ったからである。
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黒字になったという報道がある。それは喜ばしいことである。赤字よりはいい。しかし言い換えれば、それだけ多くの人があの万博に苦しめられたということだ。それは良いことではない。さらに言えば、運営費は黒字だが、その費用には建設費は含まれないという。黒字とは……?
このように、私にはバイアスがある。藤本壮介への不信感がある。
だからといって、相手を理解しようとする姿勢まで捨ててはならない。ちゃんと相手のことを知ろうとすれば、思わぬ一面や見えていなかった魅力に気付かされることもある。
むしろ憎んでいるからこそ行かねばなるまい。そんな心持ちで遠路はるばる六本木まで電車を乗り継いで行ってみたのである。
その甲斐はあった。多くの学びを得ることができた。と、あらかじめ言っておこう。
エンタメ性は高いが薄っぺらい
感じたのは「薄っぺらいな〜」ということだ。
藤本壮介のことではない。藤本壮介の建築のことでもない。展示がだ。
一つずつ追って見ていこう。
思考できない森
まず最初に見せられたのが「思考の森」という展示。
一つの部屋にひしめくように模型やら図面やらオブジェやらが陳列されている。来場者は模型と模型の間に入り込んでいくことになるが、動線は一本ではない。複数の入り口から入り組んだ道を好きに歩きながら展示を見る。さらに、天井から吊るされた模型などもあり、視線の高さは定まらない。まるで森の中を歩くような体験。
そう、森。これこそが藤本建築の真髄。「思考の森」は藤本建築の根幹を身体的に理解することを促すように設計されている。
素晴らしい展示ではないか。このエンタメ性は、山本理顕展にはなかったものだ。数が多いというのはそれ自体が重要なエンタメ要素だが、さらにそこに意味が付与されている。
しかし、数が多いということは、それだけ一個一個の展示の扱いは軽くなるということでもある。また、ルートが複数あるということは、その並び(=論理であり、ストーリーでもある。)によって何かを表現することを捨てているということでもある。要するに、この展示を通して藤本壮介の建築への理解を深めることはなかなか難しい。
私が知りたかったのは、藤本壮介がこれまでどのような建築物を設計してきて、その裏にはどのような思考があるのかということだった。それに答えてくれる展示会ではない。
なぜ森なのか?
次に見せられるのは、藤本壮介の活動の年表とインタビュー映像。
面白いと感じる部分はあった。森という空間はたしかに存在するが、その境界は明確ではない。開かれているのに、閉じている。そういう意味において森のような空間を作りたいのだと藤本は言う。だいたいそんな雰囲気の話があったと理解している。たしかに大屋根リングはそのような空間であった。
コンセプトは面白い。だが、コンセプトしか語られない。たしかに面白いけど、それになんの意味があるの? どうやって作るの?という疑問への明確な回答はない。というよりは明確な論理がないと言った方が正確か。藤本は「複雑なものを複雑なままに」みたいな感じのことを言っていたので、あえて論理を構築していないのかもしれない。だが、もし仮に「頼れるものは建築家のセンスのみだ」という話なのであれば、それはあまり面白くない。
誰やねん
ここで休憩室が現れる。40台の椅子とそこに収納された本。藤本壮介の建築等から着想を得て幅允孝が選んだ本が置いてあるのだとか。
なるほどね〜、って、いや……!! お前、誰やねーん! なんて読むのかすら分からんわ! 藤本が影響を受けた本を持ってこんかーい!
と思った人もいるかもしれませんね。
万博への思い
続く部屋には大屋根リングのミニチュア(潜れるサイズ)があり、インタビュー映像が流れている。
話していることにはなるほどねーと思わなくもない。世界中の人が一つの円の中に集まっていることを会場に来られない人々にも伝わるように作りたいだかなんだか。空やら穴やら太陽の塔がどうたらこうたら。うんちゃらかんちゃら。あと「木造なのはサステナブルだから。それが世界の潮流だから。日本の世界一の伝統的な技術もあるから」みたいな感じのことを言っていたのだが、本当に木造はサステナブルなのだろうか? いや、偉い人が言うならそうなんだろう。うんうん。
だが万博に行った身としては複雑である。理念は分かる。大屋根リングも万博の中では良い要素ではあった。でもね、実際のところ、円の中で一つになることよりも行列をなくすことの方がずっと大事な問題ではないでしょうか。やはり建築家の語る理想と現実にはずれがある、ということを感じた。
喋るぬいぐるみ
その次には、ぬいぐるみが語り合っているコーナーがあった。こういうところもエンタメとしては上手い。
擬人化は物事の理解に全く寄与しないというのが私の持論だ。『はたらく細胞』や『もやしもん』が人ならざるものを擬人化したことで、何かが分かりやすくなったとは全く思わない。
まあ、ここまで歩いてきて疲れた頭には、こういう気の抜けたコンテンツの方が染み渡るかもしれない。生物学について学ぶ気は起こらないけど、『はたらく細胞』は読む気になる。擬人化は分かりやすさはもたらさないけど、親近感を覚えさせてくれる。言い換えれば、知らない世界との境界を曖昧にする力が擬人化にはある。
そういう意味では、この展示もまた藤本建築を体現したものなのかもしれない。
でかい
仙台市(仮称)国際センター駅北地区複合施設の大きな模型が吊るされている。吊るされているのはたぶん、この施設の前に立った時の感覚を擬似体験できるようにだろう。
でかいのもまたエンタメでは重要な要素だ。
えげつない万博臭
最後を飾るのが、未来の建築についての展示。なんか球体がくっついて浮いてた。模型だから浮いてるんじゃなくて、実際に浮いてる建築を思い描いてるの。(たしかそう書いてあった。)
万博臭がえげつない。「なんかそれっぽい綺麗事と夢だけ語っとけば喜ぶんでしょ。」という姿勢を感じるのは私だけでしょうか。建築家なら遠い未来の話じゃなくて、今と地続きの未来の話をしてほしいところだ。金と法的な許可さえあれば今すぐにでも実現できる都市像を見せてほしい。絵空事はSF作家にでも任せとけばええやん。
てなことを思いながら、私の藤本壮介展は終わった。
基本的にこういう展示会みたいなのに行ったらカタログ的なものを買うことを最近は心がけているのだが、今回のは買う気になれなかった。振り返りたいと思わなかったからだ。若干後悔している。これを書いているうちに、素晴らしい展示だった気がしてきたからだ。
それでも「藤本壮介の建築:原初・未来・森」は素晴らしい。
酷評である。表層を漂って全然深みに入っていこうとしない感じが、私の求めていたものとずれていたからだ。
しかし、よくよく考えていくうちに、この展覧会の凄みに気付いた。我々はここから多くのことを学ぶことができる。
前提条件
まず、前提条件を改めて考えてみよう。
会場は森美術館である。六本木のきっと高いに違いない地価を考慮すれば、森美術館で行われる展示はまず第一に集客できなければならない。大衆が金を払って求めるものとは何か? これが森美術館が向き合うべき問いである。
大衆が金を払って求めるものは当然、藤本壮介の建築なんかではない。藤本壮介の思想でもあるはずがない。六本木に来るための言い訳である。
仲の良い人(配偶者であり、恋人であり、友達であり、好きな人である。)をデートに誘いたい。デートをするからには、特別な思い出にしたい。そのために、六本木は行き先として有力な候補である。
具体的な条件としては、まず第一にエンターテインメントがあること。第二に、子供でも楽しめること。第三に、「私たち」を飾り立ててくれること。これが重要になってくる。
満点のエンタメ性
だから「藤本壮介の建築:原初・未来・森」で何より重視されているのはエンタメ性だ。それも子供でも分かるエンタメ性だ。
- 数が多い。
- でかい。
- 可愛いキャラクター
- (建物の)異常な形状
これらが重要である。藤本壮介の思想を深掘りしていく必要などない。小難しい理屈などエンタメ性を損ねるノイズである。
ただし、ちょっとした「新しい観点の提示」にはエンタメ性がある。発見の面白さがある。(人が陰謀論にハマるのも発見の面白さがあるからではないだろうか。)難しいことは考えたくないけど、目から鱗が落ちるような観点は欲しい。
藤本壮介の建築は、この期待に応えてくれる。「森のような建築」というのはパッと見て分かる新しい観点で、それを説明するのに長々とした小難しい理屈はいらない。(しかも、「森」というコンセプトは、上に列挙したエンタメ性とも強く繋がっている。そう考えると、(木々が集まってる方の)森ってすごい。)
建築家という知性の象徴
では、そもそもなぜ森美術館は藤本壮介という題材を選んだのだろうか?
一般的に言って、建築家はインテリである。建築家になりたければ普通はまず大学で建築を学ぶものだし(藤本壮介は東大出身だ。)、建築士の試験は難関とされている。これは画家と大きく異なる。たしかに芸大も難関だが、画家になるのに芸大卒業が必須とは限らない。私立の芸大なら学力も必要ない。たぶん。
だから、建築展というのは絵画展以上に知的な雰囲気がある。(会場にそういう雰囲気があるという意味ではない。名前から漂ってくるのだ。)建築展に行くことで、来場者は知性派を気取れる。
しかも、建築家の作品は建築物だから、とにかくでかい。一般大衆の眼に触れるところでこれでもかとその存在を主張してくる。建築物は人間の社会的活動(たとえば万博とか)と必ず結びついている。小さな絵をひっそり描いている画家よりずっと役に立つ存在だし、権威もあるし、何より話題性がある。
たいていの建築家は社会を良くしたいと願っている。だから、彼らの言葉からはそういう思いがにじんでくる。たとえば、「世界中の人々が一つの輪の中に集まっている様子を表現したい」みたいな感じの。
そして、あらゆる人々は正しくありたいと願っている。(露悪的な人もいるが、彼らはそれが正しいことだと思っているからそうしている。)それだけじゃなくて、「正しい私」をアピールしたいとも思っている。だから寄付を公言している人を見ると妬む。他人の善良な行いは自分の善良ランキングを下げるからだ。悪いことをしている人を見たら叩く。自分の善良ランキングの高さをアピールできるからだ。
社会を良くしたいと願う建築家の言葉にうんうん頷くことで、善人を気取れるということだ。
このように、知性・実用性・話題性・権威・善性でその身を飾るために、人々は建築展へ行くのだ。森美術館にとって万博という旬の話題を象徴する建築家・藤本壮介は最高の客寄せパンダなのである。
森美術館という転倒
しかし、いかに大衆を対象とした展覧会とはいえ、これほどまでにビジネスライクで不満は出ないのだろうか?
この疑問に対する答えが六本木ヒルズという土地柄にある。六本木ヒルズが開業したのは2004年のこと。インターネットバブルを乗り越え、富豪の仲間入りを果たした若き起業家たちがこぞって森タワーに会社を構え、住まうようになった。ヒルズ族である。
六本木は成金の街なのである。彼らの価値観においてビジネスに徹することは称賛こそされ、恥じることではない。
そもそも、普通の美術館は地域に対して開かれているものである。美術館の目的は文化遺産等の収集・保存・展示であり、文化に関する教育・普及・研究であるからだ。そもそも閉ざされてしまいがちな美術の世界を市民に啓蒙するための施設が美術館なのである。
一方、六本木ヒルズは断絶の象徴である。六本木ヒルズに店舗を構えるルイ・ヴィトンやサンローランといった店は、貧乏人を寄せ付けない。森美術館もまた、高層ビルの最上階という、下界から断絶された場所に位置している。地域に開かれた美術館とは真逆だ。
では森美術館の立地に問題があるのかといえば、そうではない。この六本木ヒルズという空間においては、これが正解なのだ。
美術の世界は世間に対して閉ざされがちである。庶民にはなんだか格式が高く感じられる。だからこそ美術館という箱は地域社会に溶け込むことを志向することが多い(私の体感的に)。森タワーの最上階に美術館が設置された理由は、その格式の高さにある。森美術館が否応なく持ってしまう格式は、森タワー全体の格式を高める役割を担っている。格式が存在意義なのだから、森美術館の位置すべき場所は最も格式の高い最上階ということになる。森美術館の存在は、六本木ヒルズが成金の集う街ではなく文化の発信源なのだと主張している。格式のトリクルダウンである。
それでもなお、ルイ・ヴィトンに比べれば、森美術館の方が相対的に開かれた場所である。ヴィトンのバッグは少なくとも数十万円を用意しなければ買えないが、森美術館のチケットは数千円払えば買えるからだ。この場所において、美術館は関東地方から六本木ヒルズに、それも最奥部であるタワーのてっぺんまで人々を誘導する役割を担っているのだ。(これはかつて阪急が終点に宝塚大劇場を作った戦略の垂直版と言っていい。)
ハード面で格式を高めに高めながら、同時に開かれた場所でなければならない。この難題を解決するために、森美術館はソフト面において徹底的に大衆性を確保しようとする。その帰結が、エンタメ性満点の「藤本壮介の建築:原初・未来・森」だというわけだ。
ドッペルゲンガー
このように考えていくと、森美術館と万博が相似形を成していることに気付く。
第一に、万博の会場である夢洲は断絶された地域である。廃棄物処分場として生まれたこの島に、万博は人々を呼び込んだ。それに伴い整備された地下鉄等のインフラは、IRにも貢献するに違いない。
第二に、今年の万博は来場者数を2820万人と想定していた。これほどの動員を達成するためには、誰もが楽しめる面白さが必要不可欠である。それはつまり、数の多さであり、巨大さであり、可愛いキャラクターである。
そのような視点から見れば、あの行列はあえて作られたものだったのではないか?ということに思いが至る。万博会場に集まる無数の人々はそれ自体がエンターテインメントの一部を構成している。人がたくさんいるだけで祭りの雰囲気は形成されるし、人は行列のあるところに並びたがる性質がある。並ばない万博などというのは愚かな政治家の妄言であって、並ぶ万博こそが成功の鍵だったのだ。我々が、いや私が長蛇の列に並んでいるときに感じるべきは苦痛ではなく、人類の叡智への驚嘆だったのだ!!
第三に、万博にも来場者を飾り立てる力がある。万博は「最先端技術など世界の叡智が結集」する場所である。そのほとばしるインテリズムときたら、建築展の比ではない。2025年大阪・関西万博が目指すものは持続可能な開発目標達成への貢献である。国連のお墨付きを得た世界最先端の倫理感を示す場所、それが万博。万博の理念に共感した人間は、世界で最も善良な人間と言っても過言ではない。言うまでもなく話題性は抜群だ。万博に行けば、土産話でひとしきり場を盛り上げることができる。万博に行った人間は、一味も二味も違う人間になって帰ってくるのである。
森美術館と万博は、まるで双子のように瓜二つである。
万博ロスに嘆き悲しんでいる奴は今すぐ森美術館に行けえ!
私はそう言いたい。
藤本壮介は時代を体現する建築家である。
万博と森美術館という二つの事業の要請に、完璧な答えを出してみせたのが藤本壮介という建築家なのだ。彼が圧倒的に優れているのは、断絶された場所に大衆を呼び込む能力である。ギラギラに尖った資本主義的営為を、知性と善性のヴェールで覆い隠す能力である。それ以上に見逃せないのが、万博や森美術館の隠しきれない経済合理主義に全力で乗っかっていく貪欲さである。
ここまで皮肉を語ってきたように見えるかもしれない。しかし、実際、我々は彼と森美術館と万博を見習うべきではないだろうか。理念も大事だが、人を楽しませることも大切なことだ。それ自体は否定されるべきことではない。
そして、万博を夢洲で開いたことに対する疑問の声もあるかもしれないが、やるって決まっちゃったならその中で全力を尽くすしかない。そういう考え方はあったっていい。私は、藤本壮介が今回の万博や森美術館での展示に対して100%肯定的に考えているとは思わない。心の片隅で腑に落ちていないこともあるのではないだろうか。どんな仕事だってそういうことはあるに違いなくて、これほどの大事業であればなおさらだろう。矛盾の中で折り合いをつけながら、ベストを尽くす彼の姿に胸を打たれたっていいじゃない。
断絶の中で調和を語る。正義を語りながら誹謗中傷をする。金稼ぎはやめようと叫んで金を稼ぐ。我々は矛盾を抱えた時代を生きている。藤本壮介とは、そうした時代を体現する建築家なのである。
「藤本壮介の建築:原初・未来・森」はなぜ素晴らしいのか? それは森美術館以上に藤本壮介の建築展を開くにふさわしい場所はないからだ。六本木ヒルズという空間が藤本壮介とは何者か、2025年大阪・関西万博とは何だったのかを物語っている。「藤本壮介の建築:原初・未来・森」という企画自体が、実に巧妙に構築された作品なのである。