たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

『ラ・ラ・ランド』で学ぶハリウッド脚本術

I'm a phoenix rising from the ashes.

(俺は灰から蘇る不死鳥だ)

 

 今日は『ハリウッド脚本術』と『LA LA LAND』について書きます。

ラ・ラ・ランド(字幕版)

『ハリウッド脚本術』とは

 『ハリウッド脚本術』は、タイトルどおり、ハリウッド映画脚本の書き方の指南書です。物語作りを志す人にとっては、おそらく定番の一冊。

 ハリウッド映画は世界で一番金になる物語ですから、ウケる物語を作るための教科書ということでこの本が紹介されることが多い気がします。

 よって、「就職なんかしないでラノベでも書いて楽して稼ぎてえ~!」という欲望を持っている就活中の大学生が読んだりします。かつての私です。欲望は露と散ります。

二つの欠点

 この本は定番の一冊でありながら、重大な欠点を抱えています。それが以下の二つ。

  • 翻訳の質が悪い
  • 具体例が古い
翻訳の質が悪い

 実際に読んでみると分かるのですが、『ハリウッド脚本術』はかなり難解です。

 大学生の頃の私は「やはり芸術の道は険しいものだなあ……」と考えながら読んだのでしょうが、今なら分かる。この本は翻訳の質がかなり悪い。

 この本を読むと、普段読んでいる本の翻訳がいかに優れているか分かるので、足るを知るきっかけとして最高の教材かもしれません。

具体例が古い

 もう一つ、これはいたしかたないのですが、具体例として挙げられている映画が古いです。初版が2001年ですから。

 古典的な名作をたくさん見ている人ならともかく、そうでない人は具体例が挙げられる度に「へ~そういう映画なんだ~」という感想だけ抱き、あまりピンとこない可能性が高いものと思われます。

 ここにはピンとこない以外の問題がもう一つあります。「果たして今の映画にも同じことが言えるのか?」という問に答えられないことです。それでは本への信頼感も揺らいでしまいます。

『ハリウッド脚本術』の骨子

 というわけで、ここではまず『ハリウッド脚本術』のエッセンスを要約してみます。その後、『ラ・ラ・ランド』に、ハリウッド脚本術理論が当てはまるのか検証していきます。

ドラマとは秩序を与えられた葛藤である

 著者は、最も原始的なドラマはスポーツであるといいます。たとえば、「井上尚弥とノニト・ドネアのどちらが最強なのか?」というのはボクシングファンを興奮させる問題です。

 ただ、井上尚弥とノニト・ドネアはどちらも最高のボクサーであると同時に、どちらも清々しいスポーツマンシップの持ち主です。どちらが勝ったとしても、我々はその結果に納得するに違いありません。

 この戦いを一味違うものにする方法は、正義VS悪の構図にすることです。井上尚弥ほど強くはないけど井上尚弥よりはるかに世間を騒がせたボクサーがかつて日本にいました。そう、亀田興毅です。

 亀田興毅はトラッシュトークで大いに世間の注目を集めました。スポーツマンシップの対極を行く亀田家の言動は批判の的になり、それゆえに、みんなが亀田興毅が負けるところを見たくなるのです。

 当時、亀田興毅がいかに世間を騒がせたのか? その証拠が下のリンクの先にあります。

プロボクシング高世帯視聴率番組 | スポーツ | プロボクシング | 過去の視聴率 | 週間高世帯視聴率番組10

 2009年の亀田VS内藤の試合は平均視聴率43.1%。2006年の亀田VSランダエタは平均視聴率42.4%。この時代、私の記憶ではすでにテレビの視聴率低下が叫ばれていた頃です。この記録がいかに驚異的かが分かるでしょう。

 亀田興毅の存在は「正義VS悪」という構図が人々の心を大きく動かすことの証左です。

 物語の場合、必ずしも正義と悪の戦いである必要はありません。価値観と価値観の対立構造ありさえすればよいのです。夢VS現実とか愛VS金とか。これを葛藤と言います。

 映画のような作り物の場合、この葛藤を描くために不要なものは一切描く必要がありません。これが「秩序を与えられた」の意味です。

三幕構成

 「何を描けばいいのか?」の答えが秩序を与えられた葛藤です。

 次の問題は「どのように描くのか?」です。これの答えが三幕構成です。

  1. 始まり=観客に問題を提示する
  2. 中盤=観客の期待を高める
  3. 結末=問題の解決

 映画はこれでできているというのです。上手い文章の構成についてPREP法とかSDS法とかがありますが、根本的にはあれと同じです。

 冒頭で観客の注意を引きます。ここで、この映画は何について語るのか(=登場人物は何をしなければならないのか)を示します。登場人物たちが何をやっているのかが最後まで分からなかった……という映画がたまにありますが、それは始まりで致命的な失敗を犯しているということでしょう。

 中盤では登場人物が問題解決のために奔走します。たいていの場合、ここで障害にぶち当たり、それがドラマを盛り上げます。

 結末ではついに問題が解決されます。観客が勝ってほしいと思う価値観が勝利をおさめ、主人公の目の前には新しい世界が広がることになります。

構成要素

 何をどのように描けばいいのかがわかりました。しかし、まだまだ漠然としていますので、もう少し具体的に映画がどのような要素で構成されるのかを紹介します。

  1. バック・ストーリー
  2. 内的な欲求
  3. キッカケとなる事件
  4. 外的な目的
  5. 準備
  6. 対立
  7. 自分をハッキリと示すこと
  8. オブセッション
  9. 闘争
  10. 解決

 映画は一人の人生を丸ごと描くものではなく、その一部を切り取ったものです。必然的に切り落とされてしまう時間軸が発生します。これが「バック・ストーリー」。

 上で説明したとおり、ドラマとは価値観と価値観の対立です。ここで勝利をおさめるのは、観客が勝ってほしいと思う方の価値観です。分かりやすくするため、観客が勝ってほしいと思う方の価値観を「良い精神」とここでは書きます。

 主人公はストーリーを通して、良い精神を獲得することになります。逆に言うと、ストーリーの開始時点で、主人公には良い精神が欠けているのです。それを描くことが「内的な欲求」の意味です。

 上で、正義VS悪の例として亀田興毅を挙げました。亀田興毅VS内藤大助の試合は、人々の心のなかではアンチスポーツマンシップVSスポーツマンシップの戦いであったと思われます(説明の都合上、かなり単純化しています)。しかし、亀田と内藤はお互いの精神を戦わせてバトルしたわけではありません。ディベートして、対戦相手にメンチを切るのが良いか悪いかを決したわけでもありません。ボクシングで戦ったのです。

 同じことが映画でも成り立ちます。主人公は何らかの価値観を巡って奔走するけれども、それは心の中の話にすぎません。観客を惹きつけるのはもっと目に見えて分かる問題です。「キッカケとなる事件」が起きて主人公が問題に直面し、その問題を解決するための「外的な目的」が設定されます。

 ビジネスに置き換えると、外的な目的=KPIと言えるかもしれません。「事業が上手く行っているか」というのは直接に測定することはできないので、顧客満足度などの測定可能な指標を使ったりします。物語でも「人生上手くいっている度」は測定不可能なので、役者を目指している主人公なら役者になれそう具合をKPIとして置くわけです。

 目標を達成するために主人公は「準備」をします。トレーニングをするかもしれないし、仲間を集めるかもしれません。

 準備にも関わらず困難にぶち当たります。この困難は「対立」する人物によってもたらされます。

 困難に打ちのめされた結果、主人公は本当の自分と向き合います。その結果、行動がそれまでと変わります。これが「自分をハッキリと示すこと」です。

 主人公はそれまで以上に真剣に、背水の陣で問題と向き合います(「オブセッション」)。死闘の後に、価値観の戦いの勝敗が決します(「闘争」)。良い価値観が勝利したことで、主人公はストーリーの開始時点とは別人のようになり新しい人生を歩むことになります(「解決」)。

登場人物について

 以上に書いたストーリーの構成要素はすべて登場人物を介して描かれます。

 脚本家が描く以上、登場人物は脚本家の分身でしかありえません。したがって、登場人物は作るというよりも、自分の心の中から探すものになります。自分の中にある何かを誇張したりすることで、登場人物は自分ではない一人の人間として浮かび上がってきます。

 登場人物がどんな人物かは、何よりもその人が「どんな選択をするか」によって決まります。登場人物には自意識があります。自分はどんな人間であるか? あるいは、どんな人間でありたいのか? それに従って、その人なりに最も合理的な(=コストのかからない)選択をします。

 ところが、ある事情によって葛藤が生まれ、通常ならしそうもない選択をする。こうなると選択は劇的なものになります。

ラ・ラ・ランド

 『ハリウッド脚本術』の内容が分かったところで、『ラ・ラ・ランド』に当てはまるのかを見ていきます。

 なぜ『ラ・ラ・ランド』なのか。私が大好きな映画だからです。マイベストムービーと言っても過言ではありません。『セッション』(Whiplash)と『ラ・ラ・ランド』で一二を争っています。

始まり

 まず冒頭を飾るのが、ロサンゼルスの高速道路で繰り広げられる群舞。このシーンは「この映画はミュージカルですよ」と観客に対して高らかに宣言しています。ちなみに私は初見の時、早くもここで心を奪われました。

 続いて、ミアがセブに出会うまでが描かれます。ここでは、映画女優になりたいという夢と、それとは程遠い現実が描かれます。

 時間が遡って、視点がセブに移ります。まず姉との対話があり、この中でセブのバック・ストーリーがわずかに語られます。と同時に、この映画における対立軸がほのめかされます。夢VS現実です。夢を追うセブには金がなく、現実を見さえすればセブは富も恋人も得ることができそうです。そんな現実の誘惑には目もくれないのがセブというキャラクターで、これが端的に表れるのがレストランのシーンです。

 金のためフレッチャーに従うか、自意識を守るために自分の好きな曲を弾くのか。この二択を迫られたセブは葛藤の中で後者を選択します。この映画で最初の劇的な選択であり、セブのキャラクターを見事に浮かび上がらせています。

 謎のパーティーで再びミアとセブは出会います。先だっての姉との会話の中で、ジャズが好きじゃない女性はセブにとってアウトオブ眼中であることが描かれていました。ミアはセブのバンドに『I ran』をリクエストしますが、これはセブにとって屈辱的な曲でした。逆に、セブはセブでレストランでミアを無視したり、ここでもミアに突っかかったりしています。つまりお互いに理想の恋人像とはかけ離れた存在だったはず。二人は自意識を保つために皮肉を言い合いますが、それにも関わらず惹かれ合っていきます。ここにもうっすらと葛藤があります。

 後日、ミアの店をセブが訪れ、語り合う二人。ここでミアがなぜ女優を目指すのか(バック・ストーリー)が語られます。バック・ストーリーは必要最低限な分だけ書けというのが『ハリウッド脚本術』の教えなのですが、ここで語られることはすべて伏線になっています。セブがミアの実家に行く時や最後のオーディションで機能します。伏線にならないことは語らせていないわけです。

 それを聞いたセブは、ミアに自分で脚本を書くことを提案します。ここで外的な目的が設定されました。自分で脚本を書いて女優になる。これがミアの目標になります。セブとミアの出会いはキッカケとなる事件だったわけです。

 ”I hate Jazz"と言うミアに対してセブがジャズについて熱く語ります。ここではセブには「ジャズ・バーを持つ」という外的な目的があることが示されます。

 セブにはキッカケとなる事件がありません。ミアに関しても「女優になる」が外的な目的だと考えるとキッカケとなる事件がないとも言えます。

中盤

 ミアがオーディションの一次選考に通るという奇跡が起き、これを口実にセブはミアとの次のデートをセッティングします。

 ところが、ミアという女は実にバカでして、その日は恋人グレッグとディナーの約束があることをすっかり忘れていたのです。

 セブとの約束をすっぽかして、グレッグとその兄と豪華なレストランで食事をするミア。しかし、スピーカーからセブが弾いていた曲が聞こえてきます。金持ちの今彼か、売れないミュージシャンか? この二択を迫られたミアは後者を選びます。葛藤を伴った劇的な選択です。(グレッグからしたらひでえ話だよ。)

 セブと付き合うこととなったミアはさっそく脚本を書き始めます。「準備」ですね。

 浮かれた二人に、現実という敵が牙をむきます。

 セブはミアが母親と電話をしているところを聞いてしまいます。売れないミュージシャンと付き合っていることを心配しているであろう母親に対して、ミアがセブを弁護しているのです。

 このままではいかんと思ったセブは、旧友であるキースのもとへ行きます。キースは古き良きジャズを捨て、売れる音楽を選んだ男。かつてのセブであれば、絶対に頼ったりはしませんでしたが、ミアと出会ったことでセブは自分の生き方を曲げます。

 こうして対立が訪れます。現実に魂を売ったセブVS夢を追い続けるミアです。

 さらに、ミアの一人芝居当日、職場から向かおうとしたセブは雑誌の撮影があることを告げられます。失念していたのです。またダブルブッキングかよ!とツッコみたくなりますが、「また」であることが極めて重要です。グレッグとセブの間で揺れたミアとの対比になっているわけです。あの時、ミアはセブを選びましたが、セブはミアを選びません。撮影を優先するのです。社会人としては当たり前なのでスルーしてしまいがちですが、セブは「仕事を選ぶ」という劇的な選択を行っていたのです。

 舞台を終えたミアは裏で酷評されているのを耳にしてしまいます。絶望したミアはセブをどついて田舎に帰ります。ミアは夢や情熱を追いたいという内的な欲求と今まで以上に真剣に向き合うことになります。

 セブのもとに一本の電話。ミアの一人芝居を見て気に入り、ミアにオーディションを受けてほしいという内容。ミアを迎えに行くセブ。しかし、もう傷つきたくない、これでダメだったら二度と立ち直れないとミアは拒否します。激論を交わした末、セブは明朝に家の前にいるように言い残して去ります。

 翌朝、ミアはセブの前に現れます。もう一度だけ、オーディションを受けることを決めたのです。これは自分をハッキリと示すことであり、オブセッションでもあります。

終盤

 オーディションでは「何でもいいから話をして」という無茶振りをされます。おそらく、これまでのオーディションで一番しんどい課題です。ミアは自分が女優を目指すきっかけになった叔母の話をします。実家の子供部屋に一度帰ったからこそ、それができたのかもしれません。ともかく、この場面は闘争に当たります。

 そしてラスト、解決です。5年経って、有名女優となったミアはセブではない男と結婚して子供も設けています。ミアは偶然、セブの店に立ち寄ります。セブとミアはお互いに気付きますが、言葉は交わしません。セブが奏でるピアノの音色は二人の間にありえたかもしれない人生を夢想させます。が、ミアはセブに声をかけることもなく、店を去ります。最後、二人は視線を交わし、頷きあって別れるのです。これが最後の劇的な選択です。

ラ・ラ・ランド』には二つの軸がある

 というわけで、『ラ・ラ・ランド』もおおむねハリウッド脚本術に則っていそうです。強いて言えば、夢を追い求める心や目的を最初から持っている点が変則的です。(ここを深堀りすると、この物語には第三の主人公がいて、それは夢を失いつつあるロサンゼルスであると考えることができなくはないかも。)

 映画の劇的な場面には常に葛藤がありました。その葛藤は、金にならず理解もされない夢を選ぶのか、金になり皆に理解される現実を選ぶのか、この両者の対立でした。

 ここまでは間違いないのですが、それだけではない何かを『ラ・ラ・ランド』には感じます。

 そこで、『ラ・ラ・ランド』がダブル主人公であることに注目してみたいと思います。

 上では、主としてミアを主人公として捉えていました。が、実は同じ夢VS現実でも、ミアとセブではそこに込められる意味合いに若干の異なりがありそうです。

 ミアの場合、夢を追うことは自尊心を著しく傷付けることで、現実を選ぶことは安寧に至る道でした。

 セブの場合、夢を追うことは金にならないことで、現実を選ぶことはミアを養えるようになる道です。セブにとって夢VS現実は夢VS金で、それは要するに夢VSミアであり、夢VS愛なのです。セブは一時、愛を選び夢を捨てようとしますが、一人芝居後のミアとの別れにより再び夢を追います。

 セブの視点からすると、ミアに振られることでどん底を味わい(対立)、改めてミアの夢を応援しに行き(自分をハッキリと示すこと)、ミアと別れることを選ぶくらい本気で夢を叶えることを選びます(オブセッション)。そして、夢が実現してバーを開きます(解決)。ミアがバーを訪れて立ち上がる、あの幻想、ミアと結ばれるけれど自分はバーを開けない人生。実に魅惑的な幻想。それでも、ミアと結ばれないけれどバーを開けたこの人生を笑顔で肯定する(闘争)。

 という構成になっているのではないでしょうか。こうやって考えると、『セッション』と同じく闘争で終わらせているのですね。

 二人の人物についての一本のストーリーを見せながらも、ドラマチックなポイントがそれぞれで違う。この重層性が『ラ・ラ・ランド』の面白さの秘訣かもしれませんね。

 

 ブログを始めてから初めて『ラ・ラ・ランド』を見たのですが、前にもまして胸に響きました。

 というわけで、復活してほしいものは私の心の中にある情熱の炎です。

 

今週のお題「復活してほしいもの」