たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その1 タクシードライバー

 今年の目標であるアメリカ映画ベスト100制覇。その第一歩目として選んだ作品は『タクシードライバー』。

 『タクシードライバー』は1976年の映画。監督はマーティン・スコセッシ、主演はロバート・デ・ニーロ。ヒロインとしてジョディ・フォスター(14)が出演している。

 余談だが、私はジョディ・フォスターのことを特別に美人だと思ったことがなかったが、この映画のジョディ・フォスターはめちゃくちゃ美少女だ。『レオン』のナタリー・ポートマンでも同じ現象を体験した。念のため言っておくと、私はロリコンではない(言い訳をするとかえってロリコンぽく見える不思議)。

 この映画の内容を一言でいうと、社会に不満を持つ男が犯罪計画を立てて世間に復讐する話といえよう。『ジョーカー』の元祖的な映画と言って大きな間違いではないはずだ。

 せっかく名作を見ているのだから「面白かったー」「つまらなかったー」だけ書いてもあれなので、映画の構造を分析してみたい。

 『タクシードライバー』は三つのパートに分けることができる。

  1. 社会への不満
  2. きっかけ
  3. 復讐計画

社会への不満

 「社会への不満」と口で言うのは簡単なのだが、映画にするとなると、これに肉を与えなければならない。象徴的な悲劇を描く必要がある。

 『タクシードライバー』では「女性にフラれる」という肉を与えている。とはいえ、ただ道行く女性に声をかけてフラれるのでは、当事者にとっては悲劇になりうるかもしれないが、観客としてはあまり劇的には思えない。

 「女性にフラれる」を劇的なものにするにはどうすればよいのか? これは悲劇一般に言えることだと思うが、基本は「上げて落とす」だ。つまり、「なんだかイケそうな気がするー!」状態に一度持っていくのが定石である。

 というわけでトラヴィスは街で見かけた天使のような女性ベッツィーをナンパする。トラヴィスイカれた言動がベッツィーの図星を突き、ナンパはまさかの成功を収める。トラヴィスはカフェデートを経てから映画デートにこぎつける。

 この成功体験の成功感をより高めるために二人のキャラクターが配置されている。

 一人は、ベッツィーの前にトラヴィスがナンパを試みる女性。彼女はポルノ映画館の売店で働いていて、声をかけるトラヴィスに全く取り合わない。彼女のおかげで、トラヴィスは女に飢えているにも関わらずモテない男であることが分かる。もしかしたらこの世で最も悲惨な生き物はモテない人間かもしれない。仕事をクビになっても愛してくれる人がいれば救われる。出世街道まっしぐらでも愛してくれる人がいなければなんとなく寂しい。異論はあるかもしれない。「俺は(私は)モテないが幸せだ」と。それならこう言い換えるとどうだろう。孤独な人にはなんとなく人生の陰を感じる、と。それでも「俺は(私は)一人の方が気楽で好きだ」という人もいるかもしれない。それでも、トラヴィスはモテないことに鬱屈した感情を抱いている。そんな彼だからこそ、ベッツィーとデートできることは人生最高のイベントだったに違いない。モテ男のデートは取るに足らない出来事だが、非モテ男が意中の女性とデートできたら人生の一大事である。(少し話が逸れるが、このトラヴィスの孤独こそがベッツィーが彼に惹かれた理由だ。どんな人でも心の中にトラヴィスを飼っている可能性はある。)

 もう一人がベッツィーの同僚のアフロ男である。アフロはベッツィーと仲良さげな描写をされている。にも関わらず、ベッツィーはトラヴィスになびく。ライバルがいると恋は燃える。トラヴィスのナンパの成功感がより強調されることになる。(そして、トラヴィスがベッツィーにフラれた時の失意もより深くなる。ライバルがいないならトラヴィスをフッてもベッツィーはフリーなままであり続けるが、ライバルがいるとベッツィーがそいつに取られるかもしれないという危惧が生まれる。)

 結局、トラヴィスが映画デートで選んだのがポルノ映画だったため、トラヴィスはベッツィーにフラれる。ベッツィーの働く選挙事務所にトラヴィスは怒鳴り込みに行くがアフロ男に追い出される。トラヴィスはポルノ映画がまずかったとはあまり思っていない。トラヴィスイカれっぷりが遺憾なく発揮されている。彼が幸せになる未来は想像できない。

 ここまでトラヴィスがベッツィーにフラれるというイベントに注目して書いてきたが、これだけだと女にフラれた男が見当違いな復讐を行うだけの話になってしまう。トラヴィスがベッツィーにフラれた事件は象徴でしかないことを描くため、その他にも細かくタクシー・ドライバーという職業を通してトラヴィスが社会に対する不満を持っている様子が描写されている。

きっかけ

 とはいえ、ここからすぐにトラヴィスが社会に対して復讐を実行したのではあまりにぶっ飛びすぎて観客がついていけない。というわけで、トラヴィスが行動を起こす前に二つのきっかけが与えられる。

  • 寝取られ男との会話(発想)
  • アイリスとの二回目の出会い(使命感?)

 トラヴィスは夜の街を走る中で二人の人物に出会う。

 一人目は妻の不倫現場を見張る乗客だ。彼は妻を44マグナムで殺してやると述べる。これはトラヴィスに社会への不満をぶちまける方法についてのアイディアをもたらす。

 二人目は以前トラヴィスのタクシーに逃げ込んで来た若い娼婦(後にアイリスという名前であることが分かる)。その時、トラヴィスはアイリスが悪そうな男に連れ去られるのを見送るしかできなかったのだが、彼女を再び夜の街で見かける。トラヴィスはアイリスを追跡するものの逃げられてしまう。この時、トラヴィスが何を考えていたかは定かではない。「また女に気持ち悪がられた!」と怒りがピークに達したのかもしれないが、後々トラヴィスはアイリスを救うために会いに行くので、いまだ夜の街を彷徨うアイリスに同情をしていたのかもしれない。ともかく、この直後にトラヴィスは復讐計画に着手していく。

復讐計画

 トラヴィスはベッツィーが応援している大統領候補パランタインの殺害を目論むのだが、その準備を進めていく様子が丁寧に描かれる。銃を入手し、鍛錬し、現場の下見にも行く。あと予行演習的に街で出くわした強盗を射殺する。この時のトラヴィスは楽しそうで、生き生きしている。人を救うのは未来へのビジョンなのかもしれない。たとえそれが歪んだものであったとしても。

 おそらくトラヴィスにとって、これは復讐のための計画ではなく、自分がヒーローになるための計画なのだ。悪をなそうと思って悪をなす人間はいない。誰もが(自分にとっての)正義を行おうと思って生きている。トラヴィスが悪をなそうとしているとすれば、それは彼にとっての正義と社会にとっての正義にズレがあるからだ。

 トラヴィスはもう一つのアクションに出る。アイリスに会いに行き、彼女を解放しようと説得を試みる。しかし、アイリスはスポーツという男に依存しており、トラヴィスの申し出を拒む。

 そしてついにトラヴィスは計画を実行に移す。パランタインの街頭演説を聴くトラヴィス。演説を終えて退場しようとするパランタインに近づくトラヴィスだったが、ボディーガードに察知されてその場から逃げ出す。その足でアイリスのもとに向かうと、アイリスを食い物にしている男たちを皆殺しにして警察に捕まる。

 これで終わり……かと思いきや、トラヴィスは家出少女をギャングから救ったとしてマスコミやアイリスの親からまさかの英雄扱いを受ける。

 ここでも『レオン』とシンクロするが、良いおじさんが少女を悪いおじさんから救う話はおじさんの大好物なのだ。というか『タクシードライバー』のきれいなところだけを抽出したのが『レオン』と言ってもいいかもしれない。

 退院したトラヴィスの顔は晴れやかで、ベッツィーをタクシーに乗せてももう怒り狂いも口説こうともしないのであった。

 

 これが私にとっての『タクシードライバー』だ。2022年7月8日を経た我々にとっては最初から最後まで空想のものとは思えない迫真性がある。当時のアメリカはベトナム戦争の余韻が残る頃で、その世相を反映しているらしい。現代の日本(というか世界)も当時のアメリカに近い状況にあるということなのだろうか。

 昨日『かがみの孤城』を見たのだが、『かがみの孤城』も学校という社会からあぶれた子どもたちを描いている作品だ。そういう意味では『タクシードライバー』と通底するものはある。孤独な人々に空想の銃を与えると『タクシードライバー』になり、空想の城を与えると『かがみの孤城』になるといったところか。ただし『タクシードライバー』は時系列に沿って描かれているのに対し、『かがみの孤城』はまず城というきっかけが与えられてから、主人公たちにどんな悲劇が起きたかを遡って描く(そしてそれが解決にもなっている)という流れになっている。この順番でストーリーを展開すると、ミステリー風味になる。エンタメ的に面白くはなるが、もしかするとエンタメに重心が行き過ぎて迫真性は薄れてしまうかもしれない。ともかく「孤独な人々をいかに救うか?」は鉄板のテーマと言えそうだ。

 

 正直、観た直後は「これがそんなに名作なのか?」と思わなくもなかったが、こうやって書き出してみると、面白映画要素が満載だ。学びが多い。これがベスト映画100ってやつなのか……!