たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

『バチェロレッテ』は本当に真実の愛を探す旅なのか

真実の愛を探す恋愛リアリティショー『バチェロレッテ・ジャパン』

 『バチェロレッテ・ジャパン』シーズン2はこんな言葉から始まる。

 この番組のコンセプトは「真実の愛」のようで、ことあるごとにこの言葉が使われる。

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 Amazon Prime Videoの人気番組バチェラーシリーズは、一人のゴージャスなセレブ(男ならバチェラー、女ならバチェロレッテと呼ばれる。)が十数人のゴージャスな異性の中からたった一人の結婚相手を選び抜くまでの様子を記録する恋愛バラエティ番組である。

 簡単に仕組みを説明しよう。バチェロレッテは、ローズセレモニーと呼ばれる場で、良いと思った男性に薔薇を渡していく。ローズセレモニーは各話に一回ずつ行われ、その都度、薔薇を渡されなかった一人~数人の男性が脱落していく。ローズセレモニーとローズセレモニーの間には、カクテルパーティー、ツーショットデート、グループデートなどの催しがあり、男性参加者はそれらの僅かな時間を有効活用してバチェロレッテにアピールしていくというわけだ。

 ある者は豪華絢爛なセレブのデートに憧れを抱き、ある者は参加者同士が繰り広げる激しく時に醜い闘争を楽しみ、ある者は自分なら誰を選ぶかを妄想する。この番組には十人十色の楽しみ方がある。

 だが、疑問がある。この番組方式は「真実の愛」をテーマにするのに相応しいだろうか?

 たしかに、バチェロレッテの目線から考えれば、魅力的な男性の中から一人だけを選ぶには、自分にとって何が大事なのかを問い続けることが求められ、それは「真実の愛」に迫る一つの手法と言えなくはない。

 一方で、男性参加者目線で考えれば、限られた時間で最大限のアピールをしなければこの勝負で生き残るのは難しい。アピールの巧拙がバチェロレッテに選ばれるかどうかを決めるのだとすれば、アピールの下手な人間は真実の愛には辿り着けないということになる。真実の愛とはそういうものなのだろうか。

 そもそも真実の愛とは何なのだろうか?

 真実の愛がもし仮にあるのだとすれば、偽りの愛もまたあるはずである。そして仮に真実の愛と偽りの愛が交わらないものなのであれば、偽りの愛とは何かを確定させることができれば、真実の愛とは何かもはっきりするわけだ。

 真実の愛に比べると、偽りの愛は考えやすい気がする。私の思いつく限りでは、次の3つが挙げられそうだ。

  1. 一時的な愛
  2. 意図された見せかけの愛
  3. 意図されぬ見せかけの愛

一時的な愛

 まず、一時的な愛について考えよう。これは瞬間的にはたしかに愛情が存在するものの、いつか失われてしまう愛のことである。真実の愛を永遠不変の愛と前提するのであれば(永遠不変でないものを真実とは呼ばないだろう)、一時的な愛は偽りの愛であるはずだ。

 一時的な愛とはどのようにして生じうるのだろうか。愛は愛する側と愛される側が存在して成立するものだと思われる。愛する側の嗜好と愛される側のあり方が合致した時に愛が成立するのだと考えると、一時的に愛が成立してその後に愛が破綻するのは、愛する側、愛される側、どちらかが変化したためということになる。

 2つの変数を考慮すると難しいので、人間の好みは容易には変わらないと仮定しよう。そうすれば問題は愛される側(言い換えれば、何を愛するか)に絞られる。愛される側が変化することにより愛は一時的なものになってしまうし、変化するものを愛することが一時的な愛なのだ。

 では、変化するものとは何だろうか? 万物は流転するから、変化しないものを考えるのが難しいくらいだが、ブレインストーミング的に思いつくものを挙げてみよう。

  • 容姿
  • 経済状況
  • 地位
  • ライフスタイル
  • 能力
  • 知識
  • 性格
  • 価値観
  • 世界観
  • 変化それ自体

 まあだいたいのものが変化する。変化しないものといえば、物理法則と過去ぐらいだろう。人間の一生というタイムスパンで考えれば、生物学的な性質なども含めることはできるだろうが、いずれにせよ個々の人間とは離れたところにあるものばかりで、個人にまつわる不変のものといえば、思い出くらいなものである。

 ということで早々に結論を出そう。真実の愛とは、相手と過ごした時間を愛することなのである。異論もあろうが、以下ではこれを前提として議論を進めていく。サン・テグジュペリの名作『星の王子さま』の主題に通ずるものがあるし、あながち的外れな結論ではないだろう。

 しかし、ここで難題に直面する。仮にその人と過ごした時間を愛することが真実の愛なのだとして、その時間が生まれるに至るまでにも愛が必要なのではないかということだ。恋人として過ごした時間がかけがえのないものとなって、それを愛することが真実の愛なのはとりあえずいいとして、それでは恋人になるまでのステップをどう考えればよいのか。

 ここでは二つの考え方がありそうだ。

  • どのような思い出を作りたいかという観点から恋人を選ぶ。
  • 一時的な愛から真実の愛へと移行するという観点から恋人を選ぶ。

 未来を見通すことはできないし、人は自分が望んでいるものを正確に把握できるわけではないことを考えると、二番目のアプローチが現実的なように思える。つまり、当面の間、相手の容姿なり資産なり地位なりを愛せそうならば、いずれは真実の愛に辿り着くだろうという考え方である。

 この観点からいけば、経済状況や社会的地位のようなものよりも性格や価値観をより重視した方が長続きしそうではあるが、容姿などが論外で一時的な愛情すら抱けないから切り捨てるというのも真実の愛の一側面と考えられそうだ。

 『バチェロレッテ』のようにアピール上手が勝つというのは、あながち真実の愛からかけ離れたものではないのかもしれない。

意図された見せかけの愛

 「美紀さんのことが好きだ」と番組の中では叫んでいるが、番組が終わったとたんに「もう君は用済みだから別れよう」と言う男がいたとしたら、一般的にはその男性の愛は偽りだとみなされるだろう。これを「意図された見せかけの愛」と呼ぶことにする。

 バチェロレッテがバチェロレッテであることに価値を見出している男性を、バチェロレッテは切り捨てなければならない。より一般的な話に落とし込めば、女性は体目当ての男とそうではない男を見極める必要がある(もちろん真実の愛などどうでもよくて肉欲を満たしたいだけならその必要はない)。

 これは明らかなので、深く考える必要はなさそうだが、一つだけ注意しておきたいことがある。バチェロレッテという地位への愛もまた一つの愛と考えられるのではないかということだ。このように捉えると、意図された見せかけの愛は、真実の愛へと辿り着くことを予定していない一時的な愛だとみなすことができる。

意図されぬ見せかけの愛

 そもそも愛とはなんなのかという話もある。これは難しい問題で、誰もがはっきりした答えを持っているわけではない。愛に似ていながら愛とは異なる感情があるとするなら、本人すらも気付かずに、愛ではないものを愛と見せかけて振る舞うことがありうる。

 憐憫や憧れなどは、愛ではないとみなされがちだろうか。その他に兄弟姉妹への愛や母への愛に類した感情も、恋人や妻に対して抱くものとは違うと考えられることが多い気がする。

 だが、これについて深く立ち入る必要性はない。そもそも感情はグラデーションなのであって、愛と愛に似て非なるものとの間に明確な線引きをすることは不可能であるし、仮に線引きができたとして個々人や文化、言語などによって線の引き方は異なるはずであるからやはり考えることは不毛のように思われる。

 そもそも、それらの感情を一律に愛とみなして考えても、結局のところ真実の愛への橋渡しになるだけの強度を持つのか否かが重要であるという点において一時的な愛となんら変わりがないのである。

バチェロレッテは真実の愛に迫りうるのか?

 さて、ここまで考えてきたことに基づけば、人間が真実の愛に辿り着くためには一時的な愛の強度や持続性を見極めることが肝要である。

 『バチェロレッテ』というシステムは、多様な男性から一人を選ぶことをバチェロレッテに強いる。その過程で、バチェロレッテはどの要素が最もサステイナブルかを深く考えることもあるだろう。そうなれば、バチェロレッテが真実の愛に近づく可能性はありそうだ。

 しかし、「多様な男性から一人を選ぶ」ということは「男性に順位を付ける」ということである。バチェロレッテは、彼女の中で最も序列が高い男を愛することに決めるのである。

 序列は容易に変動する。バチェロレッテというシステムの中ではわずか十数人の中で序列を付けるだけでよいが、一度システムの外に出れば、そこには数十億人の男性がひしめいている。バチェロレッテの選んだ男性が、この広大な世界で序列一位であり続けられる保証などない。

 分かりやすい例を挙げれば、バチェロレッテが身長を重視して参加者の中から最も身長の高い195cmの人物を最終的に選んだとする。しかし、身長が195cmを超える人物はバスケットボール選手やバレーボール選手を見渡せば容易に見つけることができる。身長を頼りに「運命の相手」を見つけたバチェロレッテは、より身長の高い男性に出会った時、運命の相手への愛を持続させることができるだろうか?

 私にはどうしても『バチェラー』や『バチェロレッテ』という番組のシステム自体が真実の愛から遠ざかるものであるように思えてならない。私はここに至り、改めて「真実の愛」という番組コンセプトに対して疑問を抱かざるをえないのである。

恋愛サバイバルバラエティ

 これは『バチェロレッテ』の面白さ自体を否定するものではない。しかし、建前と本音にズレがある時、それはカタストロフィの種になる。サステイナブルなコンテンツであるためには、建前は本音に寄せておいた方がいい。

 『バチェロレッテ』の本質は恋愛サバイバルバラエティなのであるから、コンセプトもそれに寄せるべきだ。

 サバイバルと言えば無人島である。だから、バチェロレッテと参加者たちは無人島に放り込もう。そして、ローズセレモニーやなんちゃらデートなどという儀式は取っ払って、参加者が自由に争うことができるようにすべきだ。これこそ真のサバイバルというものだ。

 え? そんな番組がすでにある?

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刺客を用意する

 仕方がないので無人島路線はなしにしよう。

 では、逆の発想として、バチェロレッテにとってのサバイバルとして考えてみればどうか。つまり、男性陣の中に狼を用意しておくのである。バチェロレッテのことなどどうでもよいと考えている既婚男性を番組側が送り込む。

 バチェロレッテが騙されてその人物を選んでしまったらドボンというわけだ。

 え? これもすでにあるだって?

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視覚を奪う

 刺客を送り込むのが既出ネタなら、逆に視覚を奪ってしまおう。

 これは本音(恋愛サバイバル)へと建前(「真実の愛」を探す旅)を寄せるのではなく、建前の方に本音を寄せる方法だ。バチェロレッテが「真実の愛」を探しやすい番組作りを目指すのである。

 容姿だけで恋人を選ぶのは本質的ではないと考える人は多い。容姿は老いと共に変わってゆくし、化粧である程度は盛ることもできるし、容姿は徳の高さを表さない。『美女と野獣』のように容姿に惑わされない愛は感動を呼ぶ。これこそサステイナブルな愛に違いない。

 だから、カップルが成立するまで恋人候補の顔を見られないようにするのだ。そうすれば、容姿によらない恋人選定が可能だ。

 なに? これも既出ネタなのか?

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結論:『バチェロレッテ』は『バチェロレッテ』のままでいい

 新しい番組企画を考えるのはかくも難しい。(ちなみに、私は上の3つの番組を見たことがないので、別におすすめしているわけではない。)

 なんかもうめんどくせえので『バチェロレッテ』は『バチェロレッテ』のままでいいのではないだろうか。建前と本音を使い分けているのもある意味ではセレブっぽさと言えなくもない気がしてきた

 そもそも『バチェラー』や『バチェロレッテ』の本質を恋愛サバイバルと考えたのが誤りだったかもしれない。実は「ゴージャスな恋愛模様こそが本質であって、一人の人物を巡って多数の異性が争うという構図はゴージャスさを演出するためのものにすぎないのではないか……。真実の愛を求めて真実の愛から離れていくのも、暇を持て余した金持ちの余興という感じで真の番組コンセプトに沿っているようだ。

 そうか……今回の『バチェロレッテ』シーズン2がなんだか物足りなかったのは、「真実の愛」が薄っぺらく聞こえたからじゃない。ゴージャスさが足りていなかったからなんだ……。バチェラーやバチェロレッテに必要なのはいじめられた過去なんかではなくて、計算された配慮の裏に透けて見える無邪気な傲慢さだったんだ……。

 というわけで、次の『バチェラー』あるいは『バチェロレッテ』の舞台はどっかの宮殿にでもしてみるのはどうだろうか。