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アメリカ映画ベスト100制覇への道:その2 キートンの大列車追跡

 今回は『キートンの大列車追跡』を見た。

 この映画、1926年の映画である。1926年といえば、大正から昭和になった年。大昔である。「そんな古い映画、面白いの?」と思うかもしれないが、面白い。

 この頃の映画はまだ声が入っていない。無声映画というやつだ。声がなくてどうやって内容を伝えるのかというと、字幕が表示される。字幕と言っても、現代の字幕のように画面の下に表示されるわけではなく、画面いっぱいに字だけが表示されるので全く別の代物だ。そんなんだから当然セリフが多すぎると映像作品として成り立たない。そのためセリフがなくても分かるような画作りが心がけられている。ちなみに音楽はある。

 タイトルからも分かるとおり、この映画はバスター・キートンの作品である。バスター・キートンといえば、チャールズ・チャップリンハロルド・ロイドに並ぶ世界三大喜劇王の一人。『大列車追跡』ではスタントなしに際どいアクションをこなしているが、やはりアクロバティックなアクションが持ち味の俳優であり監督らしい。

 

 『キートンの大列車追跡』のあらすじは以下のとおり。

 主人公のジョニー・グレイは機関士。愛するものは機関車の将軍号と恋人。南北戦争が始まると、ジョニーは従軍を志願するも入隊拒否されてしまい、そのせいで入隊する勇気のない嘘つきと誤解され恋人にフラレてしまう。それから一年後、北軍の列車強奪作戦に巻き込まれて将軍号と恋人が北軍にさらわれてしまう。ジョニーは将軍号を奪い返すために単身、敵を追跡する。すったもんだの末にジョニーは敵陣から恋人を救出。来た道を引き返し、ついでに追ってきた北軍の迎撃作戦でも活躍をし、見事に入隊を果たし恋人と仲直りするのであった。

 という話。ほとんどの時間は機関車で機関車を追うシーンに費やされているので、一言で言えば、キートンの大列車追跡』は敵地まで行って、来た道を戻る映画だと言ってもよいだろう。

 我々はそんな映画を知っている。『マッドマックス 怒りのデスロード』である。あれも乗り物に乗って逃げてからもと来た道を戻る映画だった(記憶が正しいか不安だが)。あの映画も『キートンの大列車追跡』のオマージュでできていたのかもしれない。

 喜劇王だけあって、『キートンの大列車追跡』はギャグ満載なのだが、だいぶ体を張っているためコメディー映画を超えてアクション映画の域に達しているジャッキー・チェンの映画にもバスター・キートンの影響が随所に見えるらしいのだが、そのことからも『キートンの大列車追跡』がアクション映画としていかに優れているか垣間見えよう。

 バスター・キートンの動きはユーモラスなだけでなく、非常に機敏で、カートゥーンを想起させるし、宮崎駿作品的でもある。宮崎アクションの実写版を見たければキートンを見よう。というか、アニメでも何気ないアクションが異様にちんたらしていることが多い(ほとんどのアニメは何気ない走りの速度が異常に遅い)ので、アニメ・実写を問わず宮崎駿的なものを摂取したければバスター・キートンを見るのが良い気がする

 

 『キートンの大列車追跡』において語ることを欠かせない要素として蒸気機関車がある。

 機関車に限らず乗り物に乗っている状態自体が映像に様々な効果をもたらす。

 まず無条件で画に動きが出る。登場人物がじっとしていても背景は動き続けるから、眠くなりづらい。

 それから危険な状況が生まれる。動く乗り物に乗っていると、落ちたり、落ちて轢かれたり、乗り物が何かに衝突したり、といったような危機的状況を発生させる余地がかなり出てくる。特にドキドキハラハラが命のアクションシーンにとってこれは大きい。(最近の乗り物は速すぎるので、落ちてしまうかものドキドキではなく、外には出られないことを前提として密室を作るための手段として乗り物が使われることもある。最近の映画だと『新感染』など。)

 また、時間制限が生まれるという側面もある。「列車がどこかに到着するまでに何かをしなければならない」みたいなシチュエーションも作りやすくなる。これも映画においては非常に大きなメリットだ。

 列車特有の要素としては、規律がある。列車には遊びの余地が乏しい。レールの上しか走れないし、定時運行が基本だ。そもそも全国一律の時間が導入されたのも機関車の運行が開始されたのがきっかけだったはず。規律に縛られた社会の象徴が列車であるといっても過言ではあるまい。

 これらのすべてが笑いとの相性が良い。笑いは緊張と緩和から生まれるとはよく言われるところではあるが、厳しいルールがあるところには自ずと緊張がある。そのルールを破った時、報いを受けつつも(時に奇跡によって)全体が不幸にならなければおかしさが生じる。規律に縛られている我々観客にとっては、掟破りを代替してもらう痛快さがあり、意識したことのなかったルールが顕在化する様をそこに見出すかもしれない。という風に考えていくと、笑いというのはなかなか深いものである。

 

 というわけで『キートンの大列車追跡』はほぼ100年前の映画でありながら、全く陳腐化していない、これぞ名作!という映画であった。

 やはり名作は学びが多い。思い返してみると、『ターミネーター2』だとか『グレイマン』だとか、アクション映画には乗り物が出てくることが多い。その理由の一端を理解した気がする。今度からアクション映画を見たら「これは大列車追跡メソッドだ」と思うことにしよう。

 『怒りのデスロード』を見て、「これはバスター・キートンだね」と言えたらなんか通って感じがする。アメリカ映画ベスト100を制覇したら、そんな通に近づけるに違いない。モチベーションが高まるー。