たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

【感想】『ブルーピリオド』第11巻 俺なんで美術が苦手になったんだっけ?

 『ブルーピリオド』第11巻を読みました。

 そもそも『ブルーピリオド』という漫画自体の紹介もしていないのにいきなり11巻の感想かよ!って感じなのですが、かなり良い巻だったので、読みたてほやほやの状態で感想を書きたいと思った次第です。

 この巻は、主人公・矢口八虎が春休みの間、絵画教室でアルバイトをする話です。小学生を相手に絵を教える……というよりは教えられることになります。アルバイトの始めから終わりまでを描いているので、この巻だけで一つの作品として成立しています。

 今回のテーマは一言で言うと「絵と評価」ですね。より普遍的に言い換えると、「好きなものと評価」です。

ストーリーのまとめ

ピカソ

 働き始めた八虎は、小学生に「ピカソってなんですごいの?」と問いかけられます。それに八虎は答えることができません。調べてみても答えは見えてこず。そこで博識で教え上手な橋田に聞くことにします。

 橋田は八虎を連れて箱根彫刻の森美術館に行き、実際の作品を見ながらいろいろとレクチャーをしてくれます。レクチャーの中でポイントとなるのは主に以下の二点です。

  • 鑑賞者が頭の中で再構成することを要求した絵画キュビズム
  • ピカソは何でも描くし多作だから「こう見たい」と思ったら「こう見えてしまう」

 要するに、アートは見る人によって変化する、見られることも含めての絵画、というのを前提として、色々な意味でその究極がピカソである。といったところでしょうか。

 詳しく教えてくれた橋田ですが、ピカソのことは好きではないようです。曰く、「エネルギーの強すぎる人ってあてられてしまうねん」。どういう意味でしょうか? それについてはおいおい分かっていくこととなります。ちなみに、橋田は「ピカソにとって絵を描くって息をするのと同じようなもんやったんやと思うで」とも言っています。

 子供の絵を見たいと思った橋田は、八虎にお願いして絵画教室でアルバイトをさせてもらうことになります。

三人の子供

 ピカソの話を前フリとして、ここからいよいよ本格的に絵画教室の話に入っていきます。ここからは大きく3つの話に分かれていて、それぞれに3人の子供がメインキャラクターとして据えられます。

美玖

 美玖ちゃんはいたずらっ子な翔也を叱ったりと気が強くしっかりものな一面を見せる女の子です。八虎は彼女の描く絵を見て、色遣いが独特で素敵だと思います。ですが、彼女が独特な色遣いをするのは、色覚異常のためであることが判明します。

 「色がわからない人に色ってどう伝えたらいいんだ…?」という八虎の疑問に対し、佐伯先生(八虎の恩師であり、絵画教室の主)は課外活動を提案します。そこで佐伯先生が子どもたちに伝えたのは、色の相対性についてです。身の周りにあるものは色々な色を持っているし、光の当たり方などによっても色は変わっていく。

自分の見えている色が

あなたの「色」です

という佐伯先生のセリフは、美玖ちゃんのエピソードにおけるクライマックスを飾ります。

 とはいえ、まあありがちな言葉ではあるし、美玖ちゃんは別に色覚異常に悩む素振りもそんなにしていないので、ここでは「イイハナシダナー」程度の印象です。

 が! この巻を通して読むと、このセリフがとても重要な意味を持っていることが分かってきます!

翔也

 絵画教室でいつもつまらなそうにしている男の子がいます。それが翔也です。

 課外活動から帰ってきたその日、翔也の母親に翔也の描いた絵を見せると一言。

「どこがいいんですかこの絵?」

 翔也が絵を楽しめない原因の一端を垣間見た気がする八虎ですが、母親がどのような言動をするかコントロールすることなどできません。絵画教室の難しさを感じつつ、八虎は自分に問いかけます。

「俺なんで美術が苦手になってったんだっけ…?」

 翔也にはせめて楽しい時間を過ごしてもらいたいと思い行動しますが、それが裏目に。しかし、ひょんなことから翔也はメカを描くことが好きであることを八虎は知ります。翔也はそれが子供みたいで恥ずかしいと思って隠していたのでした。

 そこで八虎は翔也に自由に描きたいものを描かせることにしました。生き生きし始める翔也。母親も翔也がこんなに良い絵が描けたのかと驚嘆するのでした。

小枝

 3つ目のエピソードの主人公は小枝(さえ)ちゃんと橋田です。小枝ちゃんは、翔也と違い絵を描くことが大好きな良い子。

 一方の橋田は教えるのが上手で、子どもたちからの人気を得ます。バイトの感想を聞かれて「大きくなったらほとんどの子は描かなくなるから、子供の絵をたくさん見られるのは楽しい」といったようなことを言います。それを聞いた八虎は「橋田って妙に冷めてるとこあるよな」と指摘しますが、橋田はそんなことないと否定します。

 その夜、姉にもバイトの感想を聞かれた橋田は「萌ちゃん(橋田の姉)は子供が好きだから向いていると思う」と返事にならない返事をしますが、それに対して「向いてねーよ。子供に入れ込み過ぎないほうが先生に向いてるっていうじゃん?」と返されます。

 小枝ちゃんは8つも習い事を掛け持ちしているのですが、水泳教室での進級試験に落ちてしまいます。水泳教室の先生は厳しい人できつい叱責をくらいます。そういうタイミングと父親の無神経な言動が重なり、小枝ちゃんは少しずつ崩れていきます。

 絵画教室の展覧会をやるにあたり、各自が自分の作品の解説を披露することになりました。その場で、翔也に絵を褒められたことがきっかけとなり、小枝ちゃんは「自分はみんなのように絵が上手に描けない」と号泣します

 後日、橋田は小枝ちゃんに対してアドリブでの合作を持ちかけます。絵を描きながら橋田は自分の思いを吐露していきます。絵を描くのが苦手なこと、絵描きを知れば知るほど自分には無理だと思わされること、泣きながら筆を動かせる小枝ちゃんを尊敬していること……。その日を最後に小枝ちゃんは絵画教室をやめます。

 展覧会当日、小枝ちゃんが橋田のもとに来て感謝を伝えます。別れた後、橋田は「僕、先生にも向いてないわ」と呟きます。

 それから間もなく、橋田と八虎のアルバイトは終わりを迎えます。苦い結末となりましたが、佐伯先生は言います。「これが残念な結果か挫折かどうかはまだ決めるのは早いと思いますよ」

解説(あるいは感想)

 改めて書きますと、この巻のテーマは「絵と評価」です。

評価が美術を苦手にさせる

 ピカソは高い評価を受ける画家です。幼き頃から天才的な才能を発揮し、一つのジャンルを切り開きさえします。我々はそんなピカソの絵を「高い評価を受けている画家の絵」として見てしまいます。絵に対する評価は、鑑賞者さえも縛り付けてしまうのです。いわんや描き手をや。

「俺なんで美術が苦手になってったんだっけ…?」

 その答えは「評価されるから」(あるいは「評価されたから」)だと私は思います。親、教師、友人、そして何よりも自分自身が自分に対して評価を下す。それが全ての苦手の原因。

 翔也も小枝も、親から低い評価を受けますが、そういった目線を二人は模倣してしまいます。ちょうど我々がピカソを「高い評価を受けている画家」として見てしまうように。

 そして、この姿は八虎と橋田にも重なるものがあります。美大生でもある二人にとってなおさらこの問題は重くのしかかります。八虎は無自覚かもしれませんが、橋田はこれに関してかなり自覚的だと思われます。

 橋田がピカソを苦手とするのは、ピカソのエネルギーにあてられてしまうから。エネルギーにあてられるのが嫌なのは、絵を描いた分だけ「みんなのように絵が上手に描けない」ことを突きつけられるから。だからクールを装って冷めたふりをしていた。それが先生に求められる資質のような気もしていた。だけど、小枝ちゃんとの関係を通して、自分は冷めた人間ではないことを改めて突きつけられてしまった。これは橋田にとってトラウマとなってしまうのでしょうか? 一つ確かなのは、どうやら今まで以上に真剣に、教師になるとはどういうことかを考えるようになったようです。

自分の見えている色があなたの「色」です

 評価のせいで美術が嫌いになる。その評価とは基本的には低評価です。じゃあ、みんなに美術を好きになってもらうには、みんなで高い評価をし合えばいいんだ!というのがシンプルな発想ですが、非現実的です。低評価を絶対に許さないという言論統制などこの自由主義社会においてできるはずもありません。仮にできたとしても、高評価の中でも序列は必ずできるもの。じゃあそもそも評価などしなければいいというのも一つの案ですが、評価なき世界はそれはそれで味気ないでしょう。人は評価から逃れることはできないのです。

 この難題に対する一つの解こそが、翔也のエピソード。自分の好きに正直になろうというものです。これを端的に言い表しているのが、美玖ちゃん編の佐伯先生の言葉。

「自分の見えている色があなたの『色』です」

 他人の評価など、その人の、その時の評価でしかない。しかも、一口に低評価といっても、その中には色々なものが含まれているはずで、本当に低評価なのか?とさえ言えるかもしれません。

 そんなものに左右されるより、自分の本当の気持ちを尊重した方がよいのではないか。そういう話じゃないかと私は思います。

私が歌を好きになるまで

 ここからは個人的なエピソードです。

 私は歌うことが苦手でした。

 そもそも歌以前に話すことが苦手です。何を言っていいか分からなかったり、緊張して言葉を発せなかったり、幼稚園の教師に声が小さいと怒鳴られたり……といったようなことが幼き頃からよくありました。

 歌も話すことの延長線上にあります。特に、人前での独唱は。だから苦手でした。中学の音楽の教師から「低い声で歌うな」と人前で叱責され追試を受けさせられたことは絶対に許せない思い出です。

 音楽の授業だけではありません。カラオケに行っても、みんなは流行歌を歌っているけど、自分はそれらの歌をほとんど知らない。知っているのはみんなが知らないであろう洋楽かアニソンだけ。カラオケではみんなが知っている歌を歌うという謎の空気があるため、自分でも知っている邦楽か有名アーティストのアニソンを歌うかの二択に直面します(洋楽は歌詞を覚えていないと歌えない)。しかも、歌うと点数が出てきて、自分はみんなより低い点数ばかり。高校の友人たちはカラオケが好きで、わりとしょっちゅう行っていました。毎度それが苦痛でしかたなかったことを覚えています。

 でも、ある時、思ったのです。

「なんで自分の知らない歌を歌っているこいつらに合わせて頑張らなくちゃいけないんだ?」

 それからは自分の好きな歌を歌うようにしました。もう他人のことなんか知るかと。俺は俺の好きな歌を歌うと。開き直ると、のびのびと歌えるようになります。選択肢が増えれば、歌いやすい歌を歌うことも可能になります。

 それからは歌うことが好きになりました。好きになれば歌う回数も増えるし、回数を重ねれば上手にもなります。上手になれば褒めてもらえるし、ますます歌うこと(人前で歌うこと含む)が好きになっていく……。正のスパイラルです。

 今の私の持論はこうです。

「歌うことが嫌いな人間などいない。誰にも聞かせないのであれば」

 というわけで、『ブルーピリオド』第11巻のテーマには激しく共感しました。共鳴とさえ言っていいです。

 翔也と小枝を見て、「こいつは俺だ!俺もこのとおりだったんだ!」と心の中のリトル菊千代が叫んでいました。ええ。

 評価されることに苦しんだことがある全ての人々に読んでほしい一冊です。