たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

鬼滅の刃 無限列車編の舞台はなぜ無限列車なのか

 今夜は地上波初放送の『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』を見ましたよ。

 早速ですが、この映画の舞台はなぜ列車なのでしょうか?

 と言いますのは、魘夢の大量虐殺を未遂に終わらせる煉獄杏寿郎を描きたいだけであれば、人がたくさん集まるところならどこでもよかったはずだからです。学校でもいいし、病院でもいいし、鹿鳴館的な社交場でもなんでもいいわけです。にもかかわらず列車が舞台であることにはお洒落であること以外に何か意味があるのでしょうか?

 結論から申しますと、列車は「時間の流れ」のメタファーです。運命と言い換えても良いかもしれません。

 この映画は大きく分けて2つのパートにより構成されています。対魘夢パートと対猗窩座パートです。

 まず魘夢パートを見てみますと、魘夢は人に夢を見せます。悪夢を見せることもできますが、基本的には辛い現実の正反対である幸せな夢を見せます。そんな夢に浸っている間に炭治郎たちを抹殺することを試みるわけです。辛い過去を背負っている炭治郎は、もしあんな事件が起きなければ……という夢を見ることになります。辛い現実か幸せな夢のどちらを選ぶか二択を迫られ、炭治郎は苦しみながらも迷うことなく現実を選びます。この辛い現実が、レールの上しか走れない列車により象徴されています。もし炭治郎が幸せな夢を選択していれば、レールを外れ横転することになったのは魘夢ではなく炭治郎の方だったに違いありません。

 次に猗窩座パートですが、猗窩座は煉獄に対し鬼になることを推奨します。しかし、価値基準が違う二人は相容れず、交渉は決裂します。ここでは人が生きる時間の流れを逸脱するか否かが焦点になっています。つまり、煉獄が迫られたのは、人間という列車に乗り続けるか、鬼という列車に乗り換えるかの二択だったのです。煉獄は、強き者の責務を全うするため、儚くも美しい人間の生(=人間という運命)を選びます。

 無限列車という言葉は二つのものを表しています。一つは鬼です。不死の存在である鬼を、無限に走り続ける列車に見立てています。もう一つは人です。有限の存在である人ですが、その思いは若き者に継承されて永遠に生き続けます。(ちなみに、これを最も象徴しているのが鬼殺隊です。)このありようが無限列車という言葉に込められているのです。

 魘夢パートは過去、猗窩座パートは未来がテーマです。この二つが揃うことで無限列車編は完成します。

 

 蒸気機関車の力強さに、炭治郎たちの心の炎を感じるのは私だけでしょうか。

 『鬼滅の刃』が日本映画界の記録を塗り変えられた一因は、このような舞台設定の妙にあったのかもしれません。

 CMがたくさんあるとついついこんなことを考えてしまいますね。