今週月曜日に藤本タツキ先生の『さよなら絵梨』が公開されました。
読んでない人は早く読んだらええやんええやん。以下は読んでいる前提で書きます。
デッドエクスプロージョンマザー
優太が闘病の過程をスマホのカメラで記録するよう母に命令されるところから物語は始まります。
何気ない日常の連続。漫画にするには退屈な風景。しかし、メメント・モリ。死が意識されているので、退屈な日常の尊さが表現されているようにも思えます。
母の病状は悪化の一途をたどり、ついにその死を看取ることになろう日が訪れます。父と連れ立って、病院に入ろうとしたその瞬間。優太は逆走します。優太の背後で病院は爆発。優太は叫びます。
「さよなら母さァーん!!」
いやー、いい話だなあ!
この漫画はここで終わりです。
ここから先はもう一度、同じ話が発展した形で繰り返されるだけです。
メロディーが形を変えて繰り返されることで一つの楽曲ができあがるように。
さよなら絵梨
『デッドエクスプロージョンマザー』を酷評された優太が自殺を試みる寸前、絵梨に出会います。彼女はじらした末にこんなことを言ってくれます。
貴方の映画っ
超っ~!面白かった
ビンビンですよ神。
人は誰しもこんなことを言われたくて生きているのだという気がします。
次は見たやつ全員に同じことを言わせる。そのために修行をするぞ。というブチ上がる展開です。
最初に述べたように、ここからは『デッドエクスプロージョンマザー』の繰り返しです。しかし、ただの繰り返しではない。何が変わったのかに注目していきます。
伏線
まず伏線があります。
物語の積み重ねと私の人生に共感があったから泣いたの
絵梨がベタな映画で泣いた理由を説明していますが、「私の人生に共感があったから」の部分が伏線になっています。
それから、戦いに勝利すると小さくピースする癖の話もあります。これが後々かなり効きます。『さよなら絵梨』で同級生たちがブチ泣かされるシーンで、小さいピースが1ページ使ってドンと描かれるのは胸熱すぎる!
乳首が出るとよっしゃあって言う癖の話をくっつけているのも匠の技かもしれません。これがギャグとして機能しているからこそ、小さいピースが我々の記憶に焼き付けられるわけです。
どんでん返し
絵梨が優太の映画の良かったところを挙げるシーンがあります。
まず病院から逃げるトコ
あの映画では良い話の様に進んでたけど
中学生の息子に死ぬ所を撮らせようとするなんて残酷な事じゃない?
だから優太が病院から逃げて爆発した時にスカッとした
次に感動したのは母親を綺麗に撮っていたトコ
あんな風に綺麗に撮って貰えたのなら私だったらとても嬉しい
このセリフが暗示しているように、優太の母親はわりとひどい母親でした。絵梨もわりとひどい友人でした。
カメラは世界の一部を切り取ったものでしかない。映画は演出された物語でしかない。普通の人は意識しないはずですが、映画の外側にも物語があるのです。
映画の裏側を見せることでコペルニクス的転回が起こる。
『デッドエクスプロージョンマザー』の見方が変わるし、これから見る映画の見方も変わってくる。そこに面白さが生まれる。
一個の意味しか持たなかった物語が、二つ以上の意味を持って生まれ変わるわけです。
これは必ずしも映画に限った話ではなくて、人生についても同じことがいえます。
響くセリフ
『さよなら絵梨』には『デッドエクスプロージョンマザー』と違って響くセリフがあります。特に親父が名言製造機です。
創作って受け手が抱えている問題に踏み込んで笑わせたり泣かせたりするモンでしょ?
作り手も傷つかないとフェアじゃないよね
優太は人をどんな風に思い出すか
自分で決める力があるんだよ
それって実は凄い事なんだ
上で映画も人生も同じだと書きました。人間というのは結局、自分の両眼というカメラで世界を切り取って、自分という役者兼監督で物語を作り上げていく存在なんだろうと思います。
世界には自分ではどうしようもない問題が腐るほどあるわけですが、それをどう切り取るかは自分次第。
もちろん、世界を切り取る自分が世界によって形作られるという面もあります。世界をどう切り取るかはきっと個々人のトラウマやらなんやらが作用して決まるのでしょう。創作したものは世界の一部になります。だから創作には覚悟が必要なんです。
じゃあ覚悟があればそれで十分かっていうとそんなことなくて、素晴らしい物語を紡ぐ能力は神の祝福のようなものに違いありません。
デッドエクスプロージョンエリー
優太はプロット作りに悩んだ挙げ句、以下のような結論に達します。
主人公の抱えている問題は、映画をバカにされたことではなく、母親の死を撮らなかったこと。愛する人の死を撮れば、ちゃんと生きようとまた映画を作る自信を貰える。
なかなか面白くなりそうな話ですし、実際、優太は自分を馬鹿にした同級生たちをブチ泣かすことに成功します。優太がピースするコマでこの漫画が終わったとしてもそこそこの評価は得られたでしょう。
予定調和の罠
しかし、よく読んでみると、これは絵梨が述べた『デッドエクスプロージョンマザー』の良かった所を否定するかのような話です。
絵梨は病院から逃げる所が良かったと言っていたのですから。当然、復活した絵梨は以下のように述べます。
この映画
良い線いってるんだけど
惜しいトコあるの
恋人が死んで終わる映画って在り来りだから
後半に飛躍が欲しいかな…
予定調和というのは恐ろしい魔物です。
美しい物語ができた……ように見える。自分だけでなく、他の人に見せても褒めてくれるかもしれない。
でも、綺麗に整理されていて良い形になっている、というだけでは心に残らない。正しいことしか書かれていない教科書のようで面白くない。同じパッケージが陳列された牛乳コーナーのようで目新しさがない!
死んだと思った絵梨が復活する。ファンタジーのつもりで作った設定が本当だったという衝撃の事実とともに。これまで積み重ねてきた物語の結晶がそこにはある。
なんて美しい物語なのでしょうか?
ちょっと美しすぎます。
だから爆破します。
絵梨は吸血鬼だったのではなく、映画に撮られたことで吸血鬼になった
予定調和を破壊しなければならないのは分かるけど、爆発オチってどうなのよ?という疑問は残ります。
ですが、こういう考え方もできます。本当は絵梨は吸血鬼でもなんでもなくて、映画の中に美しく記録されたために吸血鬼になってしまったのだと。
より分かりやすい言い方をすると優太の中でいつまでも美しいままの絵梨が生き続けることになってしまった。本当はそんなに良いヤツでもなかったのに。いつまでも絵梨に囚われて編集をし続けるはめになってしまった。まるで呪いのように。
優太が新しい人生を歩むために必要だったのは、美しい思い出と醜い現実をまとめて爆殺することだった……というのは理にかなっています。
まあ、理にかなっていることより、見た目の面白さの方が大事ですが。
全部ウソなんですけどね
この爆発オチの何が素晴らしいかって、ここで再び読者に映画は虚構であることを意識させることなんですよね。
これがあるから読者はどこまでが現実でどこまでが映画の話なんだろう?という疑問の渦に投げ込まれることになります。それに答えが出るはずもないから、読者は楽しもうと思い続ける限り楽しむことができます。
私は、最初から最後まで映画だったということで理解しています。優太も絵梨も存在しないし、優太の親父と大人になった優太の役者は一人二役だっていう。製作者は我々の知らないどっかの誰かなんでしょう。
「そんだったら、この漫画っていったいなんだったんだよ」って思う方もいるかもしれませんが、ふだん我々が目にしているあらゆる芸術はそういうものだったりします。
『スター・ウォーズ』を作ってるのはルーク・スカイウォーカーともダースベイダーとも関係のないただのヒゲモジャのおっさんだし、『ドラゴンボール』を描いたのも孫悟空やベジータとはなんら関係のないめんどくさがりのおっさんです。
そういうのは意識したくない、それじゃ面白くない、というのであれば別の説を取ればよい。それがこの漫画の良いところで、絵梨の次のセリフが的確に言い表しています。
どこまでが事実か創作かわからない所も私には良い混乱だった
というわけで、「タツキの漫画っ超っ~!面白かった」と思った私は、『ファイアパンチ』を全巻買いました。読みました。
めちゃくちゃ似てるぅ~。
『ファイアパンチ』のベストアルバムが『さよなら絵梨』ってところかな?