たぬきのためふんば

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アメリカ映画ベスト100制覇への道:その4 市民ケーン

 アメリカ映画ベスト100には実は順位がある。その中で一位の座を占めているのが『市民ケーン』だ。

 『市民ケーン』は1941年の映画。まだ白黒映画の時代だ。監督・主演はオーソン・ウェルズ

 

一言でいうと……

一代で財閥を築き没落したケーン氏が死の間際に残した「バラのつぼみ」という言葉。

そこにはどんな意味が込められていたのか?

を記者が追う話。

あらすじ

 この映画はチャールズ・フォスター・ケーンの人生を描いた映画だ。

 ケーンが幼き頃、母親がたまたま廃坑の権利書を手に入れた。それが世界有数の金山だったことが明らかになると、母親はケーンを銀行家サッチャーの養子に出し、ケーンが25歳になったら全財産を相続することを決める。

 ケーンは新聞社の経営を始め、大成功を収める。新聞以外のビジネスにも手を伸ばし、アメリカ有数の大富豪となる。そんな彼の財力を象徴するのが邸宅だ。平地に山を築き、その上に大理石の宮殿を建て、世界中の芸術品がそこに集められ、敷地内には動物園まである。

 しかし、大恐慌でそんなケーン帝国も崩壊。妻とも離婚し、宮殿の中で一人寂しく死んでいく。死の間際に残した言葉は「バラのつぼみ」だった。

行って帰ってくる物語

 私にはこれは『キートンの大列車追跡』と同じ構造の物語に思えた。つまり、「行って帰ってくる」物語だ。スタート地点から離れて、スタート地点に戻ってくる話といった方がより分かりやすいかもしれない。

 具体的には、ケーンは成り上がって栄華を誇る。大統領の娘と結婚したり、不倫の後に再婚して、再婚相手のためにオペラハウスを建てたりする。順風満帆な人生のように思えた。が、最終的に彼はすべてを失う。いや実は、最初から本当に大切なものを彼が手に入れたことなどなかったのだが。

 同じ行って帰ってくる話でも、『キートンの大列車追跡』は物理的にだが、『市民ケーン』の方は観念的になので雰囲気はだいぶ違う。また、『キートンの大列車追跡』は危険なところに行って安全な場所に帰ってくるのに対し、『市民ケーン』は華やかなところに行って寂しいところに帰ってくる。下がって上がる話と上がって下がる話なわけだから、真逆の話とも言えるかもしれない。

 以上に述べたような意味で、『市民ケーン』と同じ構造の有名な小説がある。『アルジャーノンに花束を』だ。『アルジャーノンに花束を』は、知的障害者のチャーリイ・ゴードンが手術によって高い知能を得た後、元の知能に戻ってしまう話だ。これもまた、スタート地点(低IQ)から離れたところ(高IQ)に行き、またスタート地点(低IQ)に戻るという構造になっている。

 私は『アルジャーノンに花束を』は誰しもが歩む人生だと思った。誰もが赤ちゃんから青年となり、青年から老人となる。その過程で知識は増大していき、やがて衰えていく。そのプロセスはチャーリイ・ゴードンと大きく変わらない。

 そう。この「行って帰ってくる」物語は、人生を描くのに適している。人生も無から有に至り、有から無に帰っていくからだ。『市民ケーン』も大富豪の物語だが、大なり小なり誰もがケーンになる可能性を秘めている。

捻りのきいた語り口

 ケーンの人生」がこの映画の基本要素だ。だから、本来ならば、この映画はケーンの少年時代から死ぬまでを描いていくだけで成り立つはずだ。

 しかし、この映画ではそのようなシンプルなアプローチは取られていない。一捻り、いや二捻り加えられている。

最初にネタバレするという必殺技

 まず最初にナレーションベースでケーンの人生が描かれる。そう、最初にすべてを描いてしまうのだ。

 この冒頭のシーンはケーンの伝記的映画という設定で、製作陣が「これじゃ表面的で面白くない!」とケーンの真の姿に迫ろうとする発端となる。彼らはケーンが最後に残した言葉「バラのつぼみ」の意味を解明することに鍵があると考え、関係者に取材をしていくことになる。

 では、関係者の証言がどのようなものだったかというと、大筋で言えば冒頭で語られたことと変わらない。つまり、この映画では同じ話が2度繰り返されるわけだ。当然、これは映画の面白さに寄与している(少なくとも製作者はそう思っていたはずだ)。

 物語の方向性が分かっている方が、観客にとっては「何に注目して見ればいいのか」「何を期待すればいいのか」が分かりやすい。物語では予言がしばしば重要な機能を果たすことがある(『オイディプス王』や『そして誰もいなくなった』などなど)。それと同じ効果を冒頭のビデオが果たしているのではないだろうか。

 それとは別に、ここから分かることとして、描写は精細であればあるほど面白くなるということが言えると思う。パズルのすべてのピースを集めなくても、重要な断片をいくつか集めれば、絵の全体像が想像できるかもしれないが、どこまでいってもそれは絵ではなく断片でしかない。断片は絵の代わりにはならない。絵が完成に近づいていくと、想像していたものと違うものが見えてくるかもしれない。市民ケーン』の場合、この「想像と実際の違い」が面白さの軸になっている上に、テーマにもなっている。

 最初にあえてネタバレすることで、観客にとって親切設計になり、想像と実際の違いを楽しんでもらうことを可能にし、テーマを克明にしてもいる……とてつもないテクニックだ!

 余談だが、近頃はネタバレが悪いことであるかのように思われているが、本当にそうだろうか。もちろん、結末を知らないからこそのドキドキは一度しか味わえないものだから、大切にしたいという気持ちは分かる。しかし、本当の名作は何度味わっても楽しめるもので、むしろ何度も味わって初めて感じるものも多い。(スポーツでさえもそうだ。)内容を知らないせいで名作を見る気にならないなんてことがあったらもったいないし、ネタバレを食らったらすべてが台無しになった気分になるのももったいないことだ。なによりFilmarksのネタバレレビューの見づらさは異常。ネタバレ→続きを読む→このレビューはネタバレを含みます→ネタバレの内容を表示しますか?→僕は発狂した。というわけで社会はネタバレに対してもっと寛容になってもいいと思う。

語り部の顕在化

 ナレーションベースでケーンの人生の概要が語られた後は、複数の登場人物がそれぞれの知るケーンの物語を語っていく。これにより物語は主観性を獲得すると同時に重層的になっていく。

 育ての親のサッチャーが語るチャールズ・フォスター・ケーンは愛しいバカ息子だし、忠臣だったバーンスタインが語るケーンは市民のために戦うヒーローだし、元友人のリーランドにとっては自分本位の偽善者だし、元妻のスーザンにとっては抑圧的な独裁者だ。

 語り部によってストーリーが変わるという点を重視して映画を作ると、黒澤明の『羅生門』や、最近だと『白ゆき姫殺人事件』みたいな映画になる。

構造が物語る

 最初にネタバレを繰り出すことで、『市民ケーン』では同じ話を(解像度こそ異なるものの)繰り返し描くことになる。

 「繰り返し」はこの映画の重要ポイントだ。チャールズ・フォスター・ケーンの人生は繰り返しでできている。

 ケーンはスーザンが喜ぶであろう物(オペラハウスと宮殿)を与えたが、スーザンが喜ぶことはなかった。ケーンは大衆が喜ぶ情報を与えたが、大衆は州知事選でケーンを選ばなかった。

 これはケーンの育ての親であるサッチャーにも同じことが言える。サッチャーは大いなる富をケーンに与えたが、ケーンはそれを望んではいなかった。

 むしろ、サッチャーのせいで母親から引き離されたと思い込み、ケーンサッチャーの嫌う人物であろうとすらした。ここに象徴されるように、ケーンには、自分の意に沿わないものに対して攻撃的な一面があった。

 この攻撃性は実の父親譲りのものだ。サッチャーと初めて出会った時、幼きケーンサッチャーを遊んでいたそりで叩くのだが、それを見た実の父はケーンを殴りつける。そんな父に対し、ケーンの母は「あなたはいつもそう。だからこの子を手放すの」と述べる。ケーンの父は躾と称して虐待まがいのことをしていたことが伺われる。

 ケーンは二人の父親に反発しながらも、(おそらくは無自覚に)彼らのように生きてしまった。同じことが繰り返されてしまう因果な話だが、異なる語り手を通して繰り返し物語が語られるというストーリー構造自体が、ケーンの人生を物語っているというわけだ。

まとめ

 『市民ケーン』は他にも撮影手法が当時にしては斬新だったとか、ケーンのモデルであるウィリアム・ハーストに睨まれて憂き目にあったとか、色々なエピソードがあるようだが、私は詳しくないのでそこらへんには触れられない。

 にもかかわらず、これだけ語りがいがあるとは。映画史上ナンバーワン作品の呼び声高いのも納得だ。

市民ケーン(字幕版)

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