たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

『三体X 観想之宙』は良き読み手になることの価値を感じさせてくれる小説だ

 『三体X 観想之宙』を読んだ。

 『三体』を知らない人が『三体X』の感想を読むとは思えないので、『三体』についての説明はしない。『三体』を読んでいない人は今日から読もう。めちゃくちゃ面白いから(特に二冊目以降が素晴らしい)。

 全世界で大ヒットを記録した『三体』は、当然のことながら熱烈なファンを多数獲得した。ファンのコミュニティからは、多くの二次創作が生まれたようだ。その中でとりわけ人気を博し、劉慈欣の公認を得て出版にまで至ってしまったのが宝樹(バオシュー)の書いたこの作品だ。

 つまり、『三体X』は劉慈欣が『三体』の続編を書いたものではないし、三体プロジェクトの一環としてプロがスピンオフを書いたわけでもない。ただのファンアート、同人誌なのである。

 それを知って気分が盛り下がる人も少なくないだろう。「劉慈欣が書いてないなら読む意味ないじゃん」と考える人は多いに違いない。

 例えるなら、満漢全席を食べた後に、町中華のチャーハンなんか食べたくないよといった気分か。いくら美味しくても町中華町中華だ。本格中華と比較する形で食べたらガッカリすること間違いなし。だから、『三体』という満漢全席を楽んだ後に、『三体X』という町中華を楽しめるわけがない。

 そう考えたくなるのは分かる。しかし、こう考えたらどうだろうか? 一人で食べる満漢全席より、気の合う人と食べる満漢全席の方がより美味しく感じるのではないか……と。

 そう、『三体X』は町中華ではない。『三体』という満漢全席をあなたがより一層楽しめるように同席してくれる仲間なのだ。この作品はファンアートにすぎないからこそ読む価値がある。

 『三体Ⅲ 死神永生』であまりに不遇すぎた登場人物、雲天明。『三体X』はそんな彼を主人公に据えて、『三体』の裏舞台で何が起こっていたのかを解き明かそうという一つの試みである。

 『三体X』の作者、宝樹は『三体』の延長線上にあるものを描くというよりも、『三体』の余白を埋めるように物語を編んでいく。余白を埋めるための手がかりの多くは、宝樹の頭の中ではなく、『三体』の中にある。だから、この物語は伏線回収の連続で、驚きに満ちている。『三体』の内容を忘れている読者は多いだろうから、そんな話もあったなあと懐かしく思い出すこともできて一石二鳥だ。

 また、『三体』では『銀河英雄伝説』の台詞が引用されたり、智子が和風女子だったりと、日本人としては嬉しい要素もあったが、『三体X』はその点も引き継いでいる。個人的に、『三体X』で最も衝撃的だったのは、智子の容姿のモデルが誰だったのか明かされるシーンだ。

 原作の補完というと話が小さくまとまりそうに感じるかもしれないが、『三体』は余白の多い作品だから、その点は心配無用と言っておきたい。スケールの大きさは原作に勝るとも劣らない。少なくとも客観的には原作よりもスケールの大きい物語になっている。とはいえ、余白が埋められてしまうことで、かえって世界が閉じて感じられるという面はあるだろうから、感じ方は人それぞれであることは否定しない。

 個人的にはオチも秀逸だと思う。このオチは原作者にはまず書けない。そのことにより、この作品がファンアートであることが改めて明確になる。『三体X』の解釈が気に入らなければ、読者は自由に『三体X』を切り捨てることができるのだ。だが、仮にそうなったとしても、『三体』をより楽しむヒントを『三体X』は与えてくれるに違いない。

 

 『三体X』は、本を読んで解釈すること、そして自ら想像することの価値を実感させてくれる。ただ作業的に、機械的に、消費的に『三体』を読んでいたら、『三体X』が生まれることはなかったはずだ。

 私は『三体』を読んで、雲天明のことを「かわいそ~ピエン」と思うことはあっても、『三体』で描かれなかった彼の人生に何があったかを想像したりはしなかった。少なくとも具体的には。『三体』を読んだ私の頭に残ったのは『三体』についての断片的な記憶でしかなかったが、宝樹の頭の中では『三体X』の種が芽生えることになった。この時点で『三体』から得ているものが明らかに違いすぎる。しかも、宝樹は自分の中に生まれた想像の種を『三体X』として花開かせることによって、プロの小説家にまでなった。きっとかなりの富を得たに違いない。うらやましや~。

 エンターテイメントが飽和している現代において、一冊の本についてしっかり吟味すること自体、稀有なことだ。よほど心を鷲掴みにされないと、なかなか振り返ったり、何度も読んだりすることはない。幸いにも感動的な作品と出逢えば、何度も同じ作品を噛みしめて味わうこともあるだろうが、その場合にも解釈に終始してしまう人はかなり多いはずだ。学校で培った習慣だろうか、我々は正解を追い求めてしまいがちだ(つい主語を大きくしたくなったが、私だけかもしれない)。作者が描こうとした正解(あるいは描かれたことから論理的に導き出される正解)があるものとして、その正解に辿り着くことを目指してしまうのだ。解釈だけでもかなりの体力を使うし、十分に楽しめるから、解釈に徹することに不満足を覚えることもなかなかない。

 しかし、宝樹はプルスウルトラ(さらにその先)があることを教えてくれる。一つリミッターを外すだけで、人は解釈のさらに先へ進むことができる。「正解に囚われる必要はない。物語られていないことは自分で妄想したっていい」と考えを切り替えることができれば、物語の世界はさらに豊穣なものとなる。解釈だけだと作中で描かれる枠の中でしか物語を楽しむことはできないが、自分で想像することを知れば、枠の外に飛び出すこともできるようになる。たぶん。

 優れた解釈に裏打ちされた優れた妄想である『三体X』を読んでいると、良き読み手は良き書き手になりうるのだと思わされる。エントロピー体はだれもが「小説X」を作り、読む権利を持っている。『三体X』はそのことに気付かせてくれる本だ。