今週のお題「鬼」
心のやさしい鬼のうちです。
どなたでもおいでください。
おいしいお菓子がございます。
お茶も沸かしてございます。
むかしむかし、人間と仲良くしたい心の優しい赤鬼がいました。
赤鬼は家の前に看板を立て、人間をお茶に誘いましたが誰も近寄ろうとしません。
悲しむ赤鬼を見て、青鬼が一計を案じます。
「俺が人間の村で暴れまわるから、お前は俺を退治しろ。青鬼をやっつけた強い優しい赤鬼だ。人間たちはお前を好きになってくれる。友達にだってなってくれるよ」
「青鬼くんをやっつけるなんて、そんなことできないよ」
「友達が欲しいなら俺の言うとおりにするんだ」
赤鬼は断ろうとしますが、青鬼に押し切られてしまいます。
かくして赤鬼は人間の友達になることに成功します。
が、作戦決行の日を境に、青鬼は姿をくらませました。
赤鬼は青鬼の家を訪ねることにしました。
青鬼の家には手紙があるだけでした。
「赤鬼くん、君は人間と仲良くしてください。僕と付き合っていたら、君まで悪い鬼だと思われてしまうでしょう。僕は旅に出ます。君のことは忘れません。幸せを願っています。」
赤鬼はその手紙を読んで、いつまでもいつまでも泣き続けるのでした。
鬼といえば、『泣いた赤鬼』です。
あらすじを読んだだけで涙がこぼれそうになる傑作。
今日は『泣いた赤鬼』について、考察していきたいと思います。
ちなみに、私の手元には本がないので、以下の動画を参考にしました。
矛盾がドラマを産む
物語において、矛盾が重要だという話は以前に書きました。
weatheredwithyou.hatenablog.com
『泣いた赤鬼』も矛盾に満ちた作品です。
まず、人間と仲良くなりたい赤鬼という存在が矛盾を孕んでいます。
その解決策が自作自演というのも矛盾。
人間と仲良くなりたいのに、悪い青鬼と一緒にいたいと思うことも矛盾。
なにより、赤鬼を幸せにするためにやったことが赤鬼を不幸にさせるのも矛盾です。
物語はこれらの矛盾すべてが解決する方向に動いていくわけではありません。
「鬼なのに人間と仲良くなりたい」という最初の問題だけをエンジンとしてストーリーは進みます。
その他の矛盾については見ないふりをしたままクライマックスが訪れます。
青鬼の手紙ですべての矛盾が一挙に明るみに出て噴出するのです。
ここに『泣いた赤鬼』の強烈なカタルシスがあります。
鬼はどうすればよかったのか?
これらの矛盾はいかにすれば解消されたのか?
つまり、この物語はどうすればハッピーエンドを迎えられたのか?
考察してみたいと思います。
物語の分岐点は3つあります。
- 鬼の作戦
- 作戦後の処置
- 青鬼の手紙
後ろから見ていきます。
青鬼の手紙を改める
「この物語がなぜ悲しいのか?」という問いをたててみましょう。
その答えを「最後に赤鬼が泣くことになったから」ということにしてみます。
であれば、問題は青鬼の手紙にあります。
赤鬼を泣かせたのは、明らかに青鬼の手紙だからです。
青鬼は嫉妬の鬼だった説
青鬼が置き手紙などしなければ、こんな悲しい結末にはならなかったのではないでしょうか?
青鬼が黙って去っていれば、赤鬼は不審に思いながらもいつか青鬼のことを忘れたかもしれません。
ここから穿った見方をすると、青鬼は赤鬼を泣かせるために置き手紙をしたのではないか?という疑問が湧きます。
青鬼は赤鬼が人間の方ばかりを見ていることに嫉妬をし、それで赤鬼に自分のことを忘れられないようにしたのではないか。
赤鬼に恩を売り、罪悪感さえ持たせ、それなのに罪滅ぼしをさせる機会を与えない。
これが青鬼の真の作戦だったという考え方もあります。
「青鬼はとんでもないものを盗んでいきました。赤鬼の心です」
いわばカリオストロの城作戦といえます。
青鬼はリスク回避を試みたに過ぎない説
もし仮に、青鬼が純粋に赤鬼のことを思っていたとしたらどうでしょうか?
赤鬼は心の優しい鬼です。
突然、友人が姿を消したら、しかも自分がボコり倒した後に姿を消したら、探しに行くのではないでしょうか。
現に青鬼の家を訪ねているのですから。
そこでなんの手がかりも見つからなければ、せっかく仲良くなった人間との生活を捨てて、青鬼を探す旅に出るかもしれません。
少なくとも、青鬼はその可能性を考えます。
したがって、そのルートを潰すために青鬼は手紙を残したのです。
手紙を残したからといって、赤鬼が青鬼を探しに行かないともかぎりません。
本当なら、青鬼は赤鬼に対してすら悪い奴を演じた方が、赤鬼が人里を離れるリスクをより下げられたはずです。
作戦が終わったにも関わらず人を襲うとか、赤鬼をボコるとか。
それができなかったのは、青鬼にとって赤鬼との友情だけは犠牲にできないものだったということでしょうか。
いずれにせよ、青鬼は手紙を残さざるを得なかったようです。
別れの理由をでっちあげればよかったのではないか?
赤鬼が泣いた理由は三つあります。
- 青鬼との永遠の別れが明らかになったから。
- 青鬼の深い友情に感動した。
- 赤鬼自身が犯した罪を後悔した。
1が変えられない結論であり、2は3を引き立てる機能を持っていることを考えると、3が重要です。
赤鬼の罪とは、これまた三つです。
- 青鬼の提案に同意してしまったこと
- 青鬼を殴り倒したこと
- 人間と仲良くなりたいと望んでしまったこと
上2つに関しては青鬼が考えたことですからさておくとして、問題は最後の「人間と仲良くなりたいと望んでしまったこと」です。
青鬼は「赤鬼が人間と仲良くなるために自分は去る」と書きました。
これが赤鬼に罪の意識を植え付け、苦しめるのです。
ですから、青鬼は赤鬼を悲しませるつもりがなかったのであれば、たとえば以下のように書くべきでした。
「赤鬼くん。人間と友達になれてよかったね。唐突ですが、僕は旅に出ます。目的地はハリウッドです。かねてより夢だったムービースターを目指すことにしました。いつか日本に上陸するような大作映画の主演を張るから、その時は人間たちと一緒に見てください。『こいつは俺の親友なんだぞ』と自慢するあなたの姿が目に浮かびます。あなたのことは忘れません。パワー」*1
作戦後の振る舞いを改める
ここで改めて「この物語がなぜ悲しいのか?」という問いについて考えてみます。
先程までは赤鬼が泣きさえしなければよいという前提で問題解決を試みましたが、これが間違っている可能性は高いです。
「赤鬼と青鬼が永遠に別れることになったから」
これが答えではないでしょうか。
乃木坂46においては組織を離脱することを「卒業」と称します。
そこには人生の新たなステージへ踏み出すというポジティブな響きがあります。
しかし、卒業ライブでメンバーは涙します。
乃木坂46のメンバーとして過ごした日々を尊く感じ、その尊い日常から永遠にお別れすることになるからです。
別れにどれほどポジティブな意味を持たせようが、別れたくないのが本音なのです。
赤鬼と青鬼が別れないようにする手立てはなかったのでしょうか?
一つの解は「赤鬼と青鬼が交流しているところを人間に見られさえしなければよい」というものです。
しかし、これは非現実的です。
様々な有名人の不倫報道がされる昨今、秘密を隠し通すのが困難であることは周知のとおりです。
現代の疎な人間関係でさえそうなのですから、昔の密な人間関係の中ではなおさらです。
もう一つの解は「マッチポンプだったことをバラす」というものです。
「青鬼=悪者」だから、赤鬼は青鬼と接触できない。
ならば「青鬼=悪者」という図式を取り払えばよい。
すべて自作自演だったことをばらしてしまえば、青鬼の悪行は本心から出たものではないことが明らかになります。
しかし、これには大きなリスクがあります。
人間と接触するために人間を騙したわけですから。
それを知った人間が「やはり鬼は悪い奴らだ」と赤鬼を追放する可能性の方がはるかに高い。
それ以外の方法だと以下のような道があります。
- 青鬼に贖罪をさせる
- 赤鬼が村の支配者となる
いずれにせよ赤鬼の望む形になりそうにはありません。
青鬼が人を襲ったという事実がある以上、赤鬼と青鬼が別れず、なおかつ人間と交流を続けることは極めて困難です。
作戦自体を改める
やはり問題の根源は青鬼の考えた作戦にありそうです。
青鬼が悪者にならず、なおかつ目的を確実に達成する道はなかったのでしょうか?
赤鬼の作戦の何がまずかったのか
青鬼の作戦について考える前に、赤鬼の作戦を見直してみましょう。
赤鬼の作戦の要点はこうです。
- 人間の方から赤鬼のもとを訪れるのを待つ
- 人間の警戒を解かせるために、己が優しい鬼であることを説明する
- 茶と菓子を使って人間どもをおびき寄せる
この作戦には以下の問題点があるように見えます。
- 自らを優しいと主張することに無理がある
- 家に呼ぶのはハードルが高すぎる
まず、自分で自分を褒めること自体があまり良くありません。
「お客様は神様なんだよ」とのたまう客がいたらドン引きするでしょう。
いかに「私はこの店に数億円の金を落としている」と根拠を挙げて論理的に証明しようが、疑いの目は晴らせません。
自分で自分を褒める行為自体がリスキーです。
女に嫌われる男の特徴ランキングでも「自慢話ばかりしている」は頻出です。
では、赤鬼は他人に自分を褒めさせるべきだったかというと、それは不可能です。
赤鬼は人間との接点がないわけですから、自分を褒めてくれる他人など用意できません。
接点がない。これが課題です。
そこに関しては赤鬼も承知をしていて、ゆえに家に看板を立てたのです。
しかし、この家というやつが厄介です。
家は外界から隔絶された空間です。
校長室ですら入っていくのには勇気がいります。
鬼の家となればなおさらです。
命を賭けたつもりで鬼の家に入って、そこで得られるものが茶と菓子だけ。
誰も鬼の家を訪ねないのは当たり前です。
では赤鬼が外に出ればよいのかというと、人間は赤鬼の姿を見るだけで恐怖におののいてしまうわけなのでそう簡単な話ではありません。
全身に刺青を施している人が上半身裸になってコミュニケーションを取ろうとしても、刺青に偏見を持つ人と信頼関係を築くのは困難です。
青鬼の作戦の革新性
赤鬼は八方塞がりの状況にあると言えそうです。
こうして考えると、青鬼の作戦は画期的です。以下のポイントが重要です。
- 人間にはない赤鬼の価値に着目した
- 赤鬼の価値の需要が高まる状況を演出した
赤鬼が人間を恐れさせる存在であるということは、赤鬼は人間と同じことをしても人間と接点を持つことはできないということです。
なぜならば、コミュニケーションをとることで得られるものが、人間と赤鬼とで等しいのであれば、よりリスクが低い人間とコミュニケーションをとった方がいいに決まっているからです。
虎を飼うことが猫を飼うのと等価値であるなら、わざわざ死を覚悟して虎を飼う必要はないのです。
したがって、赤鬼は人間にはない特徴ある価値提案をしなければなりません。
青鬼は赤鬼にあって人にないものは筋力だと考えました。
この筋力の価値を究極にまで高めるために、青鬼は赤鬼の筋力がないと解決できない問題を自ら創出することにしたのです。
そこまでしなくてもよいではないかと思うかもしれません。
ブルドーザーのない社会よりブルドーザーのある社会のほうが便利なのは明らかじゃないかと。
ならば、地道な活動を続けていけば、いつかきっと日の目を見ると。
そう信じられるのは私たちが科学の支配する資本主義社会で暮らしているからです。
より大きな力は社会を発展させ、私たちはよりよい人生を歩めるようになると信じているからです。
しかし、昔はそうではありませんでした。
近代に入るまで、世界はずっと低成長を続けてきたのです。
そのため、人々は将来が今より良くなるとは信じられず、むしろ今より悪くなるかせいぜい今と同程度だろうと考えていたのです*2。
そのような社会で、人々は鬼の恐ろしさを乗り越えて鬼の価値に気づくでしょうか?
否。
日常の問題について、人間は自分で解決策を見つけ出しているものです。
畑を耕す労働の苦しみは、道具を作り、家畜を使うことで軽減できています。
それでそれなりに満足しているわけで、リスクを犯してまで人知を超えた力に頼る必要などないのです。
我々だって、病気や事故の危険性が声高に喧伝されなければ、生命保険に入る必要を感じることはないでしょう。
そのため、青鬼は「赤鬼助けてキャンペーン」を打たざるを得なかったのです。
どの顧客を対象とするのか?
以上を考えると、やはり青鬼のような犠牲者を生み出さない限り、赤鬼が人間と仲良くなることは不可能だったようにも思われます。
しかし、青鬼の作戦はいい線をいっていました。
特徴ある価値提案に鍵があるのは間違いなさそうです。
ここで一度、基本に立ち返ってみましょう。
特徴ある価値提案をするためには何を考えなければならないのか?
それは以下の問に答えることです。
- どのニーズを満たすのか?
- どの顧客を対象とするのか?
- 市場のニーズは満たされていないのか、過剰に満たされているのか?
青鬼は問1について考え、答えを出しました。
人間の「もっと強大な力が欲しい」というニーズを満たせる可能性が赤鬼にはあると考え、青鬼が村を襲うことで赤鬼にプレミア価格を付けることに成功したのです。
しかし、その結末は悲劇的なものでした。
そこで、問2について考えてみます。
なぜ鬼は人間たちに受け入れられないのか?
それは鬼が人間たちに恐怖を与える存在だからです。
では、なぜ人間たちは鬼に恐怖するのでしょうか?
鬼の姿が人間とは違うものだからとか、鬼が強大な力を持っているからとか、色々と考えられますが、要するに「鬼とは怖いものだから」という信念を人生のどこかで植え付けられたからです。
おとぎ話の中に出てくる鬼に恐怖したのかもしれないし、親がしつけをする時に鬼の恐ろしさを利用して言うことを聞かせたのかもしれません。
いずれにせよ、鬼への恐怖心は先天的なものではなく後天的に養われたものであるという仮説を立てることができます。
ということは、教育を受ける前の赤子であれば、相対的に低コストで鬼と接点を持てるはずです。
人間が鬼と交流するには大きな恐怖を乗り越えなければならない。
ゆえに、そのコストに見合うだけの報酬を鬼は用意しなければならない。
その代償が、青鬼と赤鬼の永遠の別れでした。
しかし、赤子は鬼と交流するために恐怖心を克服しなくてよいのであれば?
鬼もプレミアムな報酬を用意する必要はありません。
ただ人間と同じようにコミュニケーションをとればよいだけになります。
青鬼と赤鬼は別れなくて済むのです。
赤鬼は捨て子を保護する活動をすればよかった
したがって、子供をターゲットにすることに活路を見出すことができそうです。
子供、それも捨て子が狙い目です。
親がいる子供は親が会わせてくれないでしょうし、だからといってさらってしまえばもはや優しい鬼とは言えませんから。
江戸時代には捨て子は禁じられ、保護する仕組みもあったようです。記録に残っている限りでは、鳥取藩で年に一件あるかないかという頻度のようです。
ちなみに、生類憐れみの令は捨て子も保護の対象としていたようです。
徳川綱吉に対する見方が少し変わりますね。
これを考えると、捨て子を拾うことも許されるか怪しいところです。
ですが、おそらく当時は記録に残らない捨て子もいたことでしょう。
捨て子の中には2歳以上の子供もいたようです。
このくらいの年齢になると、母乳がなくても育てることができそうです(子育てに詳しくないので確信はありませんが)。
無論、捨て子を育てるのはそう簡単なことではないでしょう。
しかし、青鬼と離れ離れになることに比べれば、どんな困難も乗り越えられるはず。
捨て子を拾い、擬似的な親子関係を築き、それがいつしか大きな村になって、子どもたちを窓口として外の人間にも鬼が受け入れられる未来がありえたかもしれません。
あぁ、赤鬼がセグメンテーションを知ってさえいれば!
『東京ゴッドファーザーズ』を見よう
というわけで、『泣いた赤鬼』が泣かなくて済んだかもしれない可能性について考えてきました。
私が『泣いた赤鬼』を知ったきっかけは、アニメーション史上に残る名作『東京ゴッドファーザーズ』でした。
奇しくも、この映画、捨て子を拾った3人のホームレスが社会との繋がりを取り戻すお話になっています。
これは偶然か。それとも必然か。
現代版『泣いた赤鬼』というわけではないけれども、本当に面白いので見たことのない方はぜひ見て欲しい!