たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

2022年やらないこと

今年の抱負:外でニュースを読まない。

 

 あけましておめでとうございます。

 新年になりますと、新たに一年の目標を立てる人が多いのではないでしょうか。俗に言う新年の抱負というやつです。

 私も例に漏れず、毎年なんらかの目標を立ててしまいます。

 去年の目標はどんなんだったろうとEvernoteのメモを確認したところ、下のように書いてありました。

  • 読書74冊
  • ピアノ:6曲習得する

 どちらの目標も達成できていません

 ピアノに関しては戦場のメリークリスマスを頑張って練習したものの、鍵盤数が足りずだんだんとやる気がなくなり挫折。楽譜集を購入してG線上のアリアに挑戦したものの今度は練習をサボりだし始め、一度サボりだしたら止まらなくなり完成までには至らず。といった状況です。6曲どころか1曲すらマスターできていない。

 読書に関しても前回の記事で挙げたように、去年読んだ冊数は53冊です。Audibleを退会したので今年は30冊読めるかどうかといったところです。

目標を達成できなかった理由を考える

 目標を達成できなかった理由として思いつくのは2つ。

忘れ去られた目標は達成できない

 一つは、目標の存在を忘れていたから。私が去年の目標を確認する時に思ったこと。「去年って目標立てたっけ?」

「去年の目標ってどっかに書いてたっけ?」

「去年の目標ってこんなんだったんだ~」

 存在すらあやふやな目標。目標を意識しないで生きてきたことの証明です。意識しないで達成できる目標があろうか? いや、ない。

ライフスタイルの変化により目標の価値が下がった

 そしてもう一つは、ライフスタイルの変化に対応できない目標だったから。

 思い返してみると、ピアノの練習をサボり始めたのは意識的にそうしたのでした。きっかけは簿記2級への挑戦です。4月頃にふと思い立ち簿記2級の勉強を開始したわけですが、簿記の勉強をするタイミングは夜寝る前です。もともと寝る前に何をしていたのかと言うと、そう、ピアノの練習です。当初はピアノを弾いてから簿記の勉強をしていたわけですが、これでは睡眠時間が削られる一方です。私は『睡眠こそ最強の解決策である』信者ですので、これは由々しき事態です。そういうわけであえてピアノをサボり始めたという次第です。

 サボりに拍車をかけたのが、電子ピアノがすでに壊れつつあることです。買ってから一年しか経っていないというのに、スイッチをオンにしても起動しなくなりました。といっても完全に動かないわけではなく、オンの中のちょうど良いポジションにつまみをもっていきさえすれば普通に動くという状況です。ピアノをPCの前に置いているので、PCを使っている間は肘置きになっているのが良くないのでしょうか? でも、この場所じゃないと絶対に習慣になりません。

 読書に関しても、読書量が思うように伸びなかったのはブログを始めたからという面もあります。ブログを書くのにはやはりそれなりに時間がかかります。休日にPCで本を読むとけっこう読書量を稼げていたのですが、その時間がブログに吸い取られたような形です。

 では、去年の抱負を達成するために、簿記の勉強もせず、ブログも始めなければよかったのでしょうか? そんなことはないと思います。

 ピアノはちょっと弾けるだけではなんの役にもたちませんが、簿記は役に立ちそうな雰囲気をそこはかとなく醸し出しています。

 読書量も、そもそも冊数で成果を測定することには違和感がありました。冊数が多いほど偉いなら薄い本(≠エッチな本)をたくさん読むほど偉いということになります。そんなわけはありません。かといってページ数で考えるのは面倒ですし、やはり1ページあたりの文字数が少ない本を読むのがいいのか?という問題が発生します。本当に大切なのは、自分がどれだけのものを得たか?ではないでしょうか。

 ブログをやれば、惰性で読書することを防ぐことができます。記事にするためには本で読んだ内容を再構成する必要があります。自分で再現しようとするとより理解が深まります。アウトプットはインプットの質を高めるのです。

 まあ、言い訳はこんなところにしておいて……。

変わらないものはなんだろう?

 つまり、変わるかもしれないものを新年の目標にしてはいけないのです。そういう目標を立ててもいいけど、新年の抱負ではなく、暫定の目標と考えるべきです。

 一年という長期スパンの目標を立てるにあたって考えるべきは変わらないものは何かです。

 変わらないものとは何でしょうか?

 まず、私がいつか死ぬこと。これは変わりません。少なくとも、この一年の間に人類が不死身になる可能性は極めて低いと思われます。時間は有限なのです。

 この限られた生をできる限り良いものにしたい。私がこう思うことも変わらないはず。そして、一年が365日であり、一日が24時間であること。これが劇的に変わることもおそらくありません。

 人生が一日の集合であるということは、できる限り良い一日を過ごすことを続けていけば良い人生になりそうです。

 できる限り良い一日を過ごすためには、一日の中から不毛な時間を可能なかぎり取り除くことからまず始めるべきでしょう。その代わりに何をすべきかは折々の状況で変わります。

 長々と書いておいて、結局は習慣を見直そうっていう話ですね。日課をターゲットにすることで目標の存在を忘れることも防ぐことができます。

ニュースを読む時間は不毛説

 私の場合、一日の中で最も不毛な時間としてまず思い浮かぶのは、職場でニュースを読んでいる時間です。NewsPicksとグーグルニュースは通信量をものすごく消費します。なぜかわかりませんが、尋常でなく消費します。

 私は楽天モバイルを使っていて今は携帯の通信料を払っていないのですが、5月頃から通常通り通信料を払うことになります。楽天モバイルは月3GBまでなら月額980円。3GBを超えると月額1980円になります。

 ニュースアプリは通信量を大きく左右します。ニュースアプリさえ使わなければ月額980円で済むところ、ニュースアプリを利用すれば月額1980円になることは避けられません。

 ニュースは家でならタダで読むこともできるのに、わざわざ外で月1000円も払って読む。これほど不毛なことはありません。

 ついでにいうと、そもそもニュースを見ること自体が不毛の極みのような気がします。特にNewsPicksは賢そうな人の賢そうなコメントを読んで、肝心のニュースを読まずに満足してしまいます。不毛です。

 ほとんどの記事は見出ししか読みません。見出ししか読まずに何を得られるというのか? よく「新聞を長年読んでると見出しだけで何が書いてあるか分かるんだよ(だから慣れると見出しだけ読めばいいので早く読めるようになる)」と言う人がいますが、これは明らかにおかしいです。自分の予想と実際の中身を照らし合わせないと、本当に予想が正しいかはわかりません。「見出しだけで何が書いてあるか分かるようになった」のではなく、「見出しだけで何が書いてあるか分かると思うようになった」のです。恐ろしいことですよ、これは。老化の兆候です。仮に本当に見出しだけで何が書いてあるか分かるとして、見出しだけで何が書いてあるか分かるようなレベルの情報を見て、何が得られるというのか?

 本当に重要な情報はSNSをやっていれば飛び込んできます。それで十分なのではないか。

 というわけで当面の間、外でニュースを読むことはやめて、代わりに読書をしようと思います。読書>ニュースは変わらないと思いますが、果たして?