来年の芥川賞のノミネート作が発表されましたね。
そんな時期になって今さら感がありますが、今年の受賞作である『推し、燃ゆ』を読みました。
期待していた以上に面白かったので解説をしたいと思います。
「推し」という新しい言葉と「燃ゆ」という古語とで構成されるこのタイトル。心ならずとも目が惹かれます。
推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は分かっていない。分かっていないにも関わらず、それは一瞬で急速に炎上した。
素晴らしい書き出し。
インパクトのある第一文。続く文章もリズムがいい。夏目漱石を彷彿とさせます。
吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。なんでも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていたことだけは記憶している。
私は耳で聴いたので目で読むのと感じ方が違うかもしれませんが、著者・宇佐美りんさんの筆力には舌を巻くばかりです。いかにも純文学らしい比喩の連続に私は感嘆しましたよ。
あらすじだけ簡単に紹介すると、主人公・あかりはアイドル上野真幸(うえのまさき)を応援する女子高生。ある日、ファンを殴ったというニュースが流れて、上野真幸が炎上する。それでもあかりは真幸を推し続けるのだが……。
まあそんな感じ。
「推し」という言葉は面白い言葉です。
同じ上野真幸を表す言葉でも「まさきくん」と「推し」では全くニュアンスが異なることにお気付きだろうか?
「まさきくん」は上野真幸に敬称を付けただけで、客観的に上野真幸を表す言葉です。対して、「推し」は「私が推しているアイドルであるところの上野真幸」の省略形です。
そう、「推し」には常に自己主張が含まれます。「推し」という言葉は推している対象を表す言葉であると同時に、推している私を表す言葉でもあります。この点はこの小説において非常に重要なポイントです。
この物語は「アイドルが炎上した物語」である以上に、主人公である「アイドルのファンをやっている私が燃えた物語」なわけです。
自意識過剰な若者に痛々しさを感じるでしょうか? 私はそうでした。最初、あかりに対して、そんな風に自分自身に意識を振り向けているから傷付くのだと思いました。しかし、この本に書かれていることを反芻しているうちに、傷ついているから自意識が強くなる面もあるかもしれないと考えるようになりました。
この物語において、あかりは標準規格をクリアすることができない自分に苦しみっぱなしです。
母の願望、学校、アルバイト……。社会から与えられるフィールドで、期待されるようなプレーができないあかり。期待されることは成長です。
一般的には成長は良いこととされますが、この小説ではそうではありません。成長神話は成長ができることを前提としています。しかし、世の中には(一般社会が期待するような)成長ができない人間もいるのです。そういう人間が成長を強いる社会の中に放り込まれた時の軋轢こそ、この小説の中で描かれていることです。
「そんな人いる?」「自分には関係ない話だね」と思った方は、今の自分がオリンピックの日本代表になったら?を想像してみましょう。おそらくどれだけ頑張っても社会の期待に応えられないはずです。そんなに極端な例を考えなくても、理想と現実の差に絶望した経験は何かしらあるものです。
社会との軋轢に遭遇する度にあかりが痛烈に意識するのが肉体です(あるいはその逆かも)。知的能力の成長が社会の要求についていけない場合、肉体の成長はとても恐ろしいものになります。要求のハードルがどんどん上がっていく一方で、自分は停滞を続ける。差は開く一方です。
肉体は重くまとわりつくものとして描かれています。生理やら病気やら、どうしようもなく付きまとう呪いのようなものです。あかりの行く先には暗雲が垂れこめています。
しかし、あかりには一筋の希望の光があります。
かつてピーターパンだった推しを推している時だけは、あかりは肉体のことを忘れられます。アイドル応援ブロガーとしてのあかりは、リアルとはまるで別人のように輝くことができます。上野真幸を推すことは、知らなかった自分、愛せる自分に出会うことなのです。だから推す。推しは背骨なのです。骨は肉体との対比です。
推しはあかりと同じ苦しみを背負っています。アイドルでありながらおよそアイドルらしく振る舞えぬ上野真幸。彼もまた社会から期待される役割を果たすことができません。結果的にそれはあかりを苦しめます。(これはキリスト教の理想と現実の狭間を描いた物語に似ているかもしれません。)
炎上とは、社会から追放されることです。何らかの罪を犯すと、人は贖罪を求められます。有名人の場合は謝罪で許されることは稀で、良くて活動休止、悪くて引退に追い込まれます。
推しが炎上した後、ほどなくしてあかり自身も炎上します。バイト先から、学校から、家庭から放逐されます。
人が燃えると、後に残るのは、骨です。
社会の尺度で評価される自分(=肉体)は、社会からの追放によって消え去るのです。
あかりのバイト先での愛称は「あかちゃん」です。最後、あかりは四つん這いになって、綿棒を拾いながら、しばらくこれで生きていこうと思います。綿棒は「推し」の骨であり、あかりの骨を表しています。上野真幸を愛しながら、自分を愛していたことに気付いた。愛せる自分がいることを知った。それと同時に愛せない自分がいることを自覚した。あえて大人になろうとせず、無理をせず生きてみよう。そういう描写ではないでしょうか。
この小説に救いがないと感じたのなら、それは読者自身が標準化の罠から抜け出せていないためです。学校や職場や家庭から評価されないと生きる価値がないという思い込みに囚われているからです。
救いは描かれています。あかりはそこそこ人気のブロガーのようです。これはとてつもない才能で、誰にでもできることではありません。このような才能を持つ人間に、それは不要な能力だとレッテルを貼り、全く不得意なことをやらせるのは、非人間的であると同時に不経済です。
自分自身の背骨で立って、生きて行きたいものですね。
というわけで、『推し、燃ゆ』の副読本として『多様性の科学』を推します。
『多様性の科学』を読めば、『推し、燃ゆ』をより理解できる。『推し、燃ゆ』を読めば、『多様性の科学』をよりリアルに感じることができる。そういうこと。
下の記事では『多様性の科学』を要約しています。
weatheredwithyou.hatenablog.com
(余談)
全然関係ないけど、Audibleで一回目1.7倍速くらい、二回目2倍速で聴いた後に、1倍速で聞いたらゴールド・エクスペリエンス!?と思うくらいの遅さでした。やはりAudibleはかなりスピードを速めた方がいいのかもしれません。
これを書いてから中田敦彦のYouTube大学を見直したら、彼も『吾輩は猫である』を引き合いに出していてびっくりしました。私は無意識のうちにパクっていたのでしょうか? いやでも確かに漱石みがあって、『坊っちゃん』でも『草枕』でもないんだよな~。仮にパクりだったとしても、共感したからこそなわけなので残しました。