たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

人はなぜタイムリープするのか

 タイムトラベル、タイムリープってのはフィクションにおいて一つのジャンルを築いていると思うんですけれども、何が良いのだろうかということを考えてみました。

 

 まず、ストーリーの構造に着目してみました。

 タイムリープ(過去に戻れる系)の話は、以下を動機として展開します。

  • 最悪の未来を回避する

 たとえば、『魔法少女まどかマギカ』、『シュタインズゲート』、『東京卍リベンジャーズ』、『ドラえもん』、『君の名は』、『ひぐらしのなく頃に』なんかはもろにこれですね。『時をかける少女』は元祖なんだけれども、実は一番ひねりが効いているかも。

 

 逆に、タイムリープしない物語の展開というのは、以下のいずれかになると思われます。

  1. 最悪の現状を変える。
  2. 最悪の未来が予想されるため回避する。

 たとえば、『千と千尋の神隠し』は「両親が豚になってしまった」という現状を変えることを動機として物語が動きます。『もののけ姫』、『天空の城ラピュタ』、『崖の上のポニョ』、『紅の豚』もこれですね。

 『魔女の宅急便』は「トンボが死んでしまう」という最悪の未来を回避することがクライマックスになる構成です。『風の谷のナウシカ』もこれです。

 とはいえ、最悪な状況がすでに実現しているのかまだ実現していないのかというだけで、1と2はほぼ同じです。

 ちなみに、これに該当しないストーリー展開は多々あるとは思いますが、ドラマチックな激しい展開の場合はほぼ上に該当するのではないかと予想します(そんなに念入りに検討してはいません)。

 

 ということはですよ、実はタイムリープものであろうがなかろうが、最悪の未来を回避しようというスタンスは同じなわけです。物語の本質的構造は変わらんのです。

 となると、タイムリープものの本質は、未来が分かっていることにあるのではないということになります。もちろん、一度悲劇を描いてみせることでより悲壮感などを際立たせるという側面は否めないにせよ、それはスパイス程度のものにすぎないのではないかと考えます。

 では、タイムリープものの本質とは何なのか?ということを考えると、これはタイムリーパーの孤独なのではないでしょうか。自分だけが未来を知っていて、周囲は悲劇的な未来が来るとは思っていないというこのギャップが生み出す孤独。これこそがタイムリープものの本質ではないかと。もちろん、孤独と対比されるのは絆ですから、孤独を描くことは絆を描くことと表裏一体です。

 上に挙げた映画や漫画を見る限り、『ドラえもん』以外は全て孤独がけっこう重要なファクターであるように思います。『ドラえもん』をタイムリープものだと捉える人はほぼいないわけであることを考えると、なおさらそういえるのではないかという気がします。

 

 だからなんやねんと言われると、なんなんでしょうねえとしか言えません。

 人はみな孤独です。母親の胎内から生まれようが、家族に看取られようが、一人で生まれて一人で死んでいくのです。そういう存在であるがゆえに、タイムリープものに共感する人が続出するのかもしれません。