たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

東京オリンピック卓球混合ダブルス金メダルに興奮したのでこれまでの歴史を振り返る。

 数日遅れになりますが、祝わせてください…。

 卓球、混合ダブルス、金メダルおめでとうございます!

 この時を何年待ち望んだことでしょうか? 中国を破って、世界の頂点に立つなんて! しかも、オリンピックという舞台で! その上、東京開催のときに! すごい!

 歴史的瞬間を目の当たりにしました。

 

 そもそも決勝の前に準々決勝のドイツ戦が面白かったですね。

 フルゲームで最終セット、いきなり2-7くらいまで引き離されて、6-9になったのだったか……。とにかくマッチポイントを何本も取られて、本当に危機的状況。そこからの大逆転。試合が終わった瞬間に伊藤美誠が涙するという。これがメークドラマってやつでしょうか。見ている方があんなにハラハラするのだから、現場にいる人たちは立っているだけでものすごい精神力です。「卓球って……面白!!」が詰まった試合でした。

 そして、決勝戦。残業もそんなにせずに帰宅して、テレビの前で待ち構えたものの。心の中では「どうせ勝てないんだろうけど……万が一があるから」と呟いたそんな夜。最初の2セットを取られた時は、やっぱりかと思わずにはいられませんでした。

 しかし、ここから展開が大きく変わる。だから卓球は面白い。

 詳細は記憶していませんが、とにかく水谷選手のプレーが神がかっていましたね。反応が完全にゾーンに入っている状態。一番凄かったのは、伊藤選手の正面に来たボールを伊藤選手が避けて、その球を返したプレー。いやあれ、少なくとも一瞬はボールが見えない状態になったと思うんですけどねー? だけど返す。それが水谷。神。その後に許昕選手が同様の状況になった時にミスしたことからも、あれが普通じゃないプレーだと分かります。伊藤選手も、ファーストゲームでは許昕のボールに圧倒されていたはずなのに、気付いたら普通に対応しているという順応力の高さ。

 そこから3セット連取するものの、1ゲームを取られ、最終セット。

 まさかのいきなり7点連取。あぁ……怖い……。勝利に近づけば近づくほど怖い。だって、相手は中国です。しかも、あの許昕と劉詩雯。点差なんてものはどれだけあってもないも同然。まして卓球という競技は、勝利を意識してしまうとプレーが崩れてしまうことがよくあるのです(どんなスポーツでもそうかもしれません)。だから勝利を意識しないようにしてしまう私。しかし、それ自体が勝利を意識しているのかもしれないという泥沼。

 しかしですね、水谷選手と伊藤選手はやはり違います。特に伊藤選手のメンタルは尋常ならざるものがあります。二人は、そのリードを活かして、無事に優勝を遂げたのです。

 もう感動ですよ。私にとって、この大会のMVPは水谷伊藤ペアです。しかしまあ、こういう時、人間ってのは泣かないもんなんですね。不思議なもんです。

 

 というわけで今日は、かつて卓球沼に浸かっていた私の思い出話をしたいと思います。水谷選手は日本卓球再生の象徴であるという話です。

この記事は、2004~2008年にかけて卓球に熱中していただけの私の記憶に基づいて書いているので、一部不正確な記述があるかもしれません。

男子卓球底辺の時代

 時は2004年。アテネ五輪。幼き頃からお茶の間に愛されてきた福原愛がついにオリンピックの舞台に立った。その活躍は世間を沸かし、福原愛の掛け声である「サー!」は一躍、福原愛と卓球の代名詞となった。

 スポットライトに照らされた女子卓球の影で、日本の男子卓球は衰退を続けていた。かつては卓球王国だった日本。荻村伊智朗、長谷川信彦、河野満などの世界チャンピオンを輩出したのも今は昔。1979年の小野誠治の金メダルを最後に、世界の頂点どころか表彰台からも遠ざかっていた。そんな中にあってもダブルスで世界選手権銅メダルを獲得した名選手が松下浩二であるが、彼も年を重ねるうちに世界ランキングを40位台まで落としていた(松下選手は日本初のプロ卓球選手であり、現在はTリーグの設立も率いたという、プレーだけでなく活動の面でも日本卓球界に大きく貢献した人物です)。アテネオリンピックでも誰もメダルなど期待されず、当然のように序盤で敗退していった。

世代交代の波

若手たちのドイツ留学

 しかしその年、全国中学校卓球大会(いわゆる全中)の男子シングルスでとてつもない偉業を成し遂げた人物がいた。なんと1ゲームも落とすことなく優勝を果たしたのである。その人物こそが、水谷隼である。

 実は、当時、日本の状況に危機感を抱いていた日本卓球協会は才能ある若手をドイツのブンデスリーガ(卓球にもブンデスリーガがある)に送り込み武者修行をさせていたのである。その中のひとりが水谷隼であったというわけで、この結果はまさに日本卓球協会の取り組みが成功しつつあることを示していた。とてつもない才能が育ちつつある……当時中学2年生で卓球王国を熟読していた私は察したのである。ちなみに、この武者修行に参加した残りの二人、岸川聖也は史上二人目のインターハイ三連覇を成し遂げているし、坂本竜介も混合ダブルスで福原愛と組み全日本で優勝している。

吉田海偉登場

 その年にもう一つ、大きなニュースがあった。宋海偉が帰化したのである。

 宋海偉は15歳の時に来日し、インターハイ史上初の三連覇を達成した人物であった。その彼が帰化し、吉田海偉として翌年の全日本卓球選手権大会に参戦したのである。

 その全日本、決勝に進出したのは前年優勝の偉関晴光。やはり帰化選手で老獪なベテランである。もうひとりが吉田海偉であった。吉田の全日本デビュー、そしてテレビデビューは鮮烈であった。吉田の圧倒的なスピードが偉関を粉砕したのである。ペンホルダーであっても両面ラバーが主流になりつつあった時代において、吉田は片面のペンで戦い、俊敏なフットワークでどこにボールが来てもフォアの強打を狙いに行く、熱血スタイル。それが吉田の卓球であり、見る者を興奮させるエネルギーに満ちていた。

水谷隼、衝撃の世界デビュー

 2005年、上海で世界選手権が開催された。卓球の世界選手権は個人戦団体戦が一年おきに行われるが、この年は個人戦の年であった。

 高校一年生になった水谷は、史上最年少の日本代表として、この大会に参加した。おそらく協会は、まだ若い水谷に成果を期待はしていなかった。未来ある若手に貴重な経験を積ませることを目的とした大抜擢であった。

 しかし、水谷はここで魅せた。当時世界ランキング8位(くらい)だった荘智淵(台湾)を破ったのである。まだ15歳の少年が台湾のエースに勝ったのだ。水谷の才能が世界に通用することを、おそらく誰もが確信した。水谷は次の試合でスウェーデンのカールソンに敗れるが、それでも十分な収穫を日本卓球界は得たのであった。

世界ジュニア選手権優勝

 水谷の快進撃はそこで留まらない。世界ジュニア選手権。各国の若き天才たちがしのぎを削る、未来の世界チャンピオンを占うといっても過言ではない大会。前年の大会では昨夜史上初の五輪2連覇を成し遂げた馬龍が優勝しているし、福原愛が彼女より若い劉詩雯とバトルして負けたことはニュースにもなった(当時フジテレビが福原愛の動向をつぶさに追っていたのである)。この年も、その後世界女王になる丁寧が優勝しているし、東京で男子シングルス銅メダリストに輝いたオフチャロフはベスト8あたりにいた。まあとにかく、世界ジュニア選手権は重要な大会なのである。

 その年、水谷は団体戦で優勝、個人戦で準優勝という結果を残す(ちなみに水谷隼の公式HPでは優勝と記載されている)。このときの団体戦では、決勝で中国を破っている。水谷の世界での活躍はもはや疑いの余地がないものとなりつつあった。

全日本を席巻する若手

 翌年の全日本は若手旋風が吹き荒れた。ベスト16の中に高校生・中学生が7人も入ったのである(参考:【全日本卓球選手権大会】一覧ページ)。

 とはいえ、優勝争いに食い込むことが期待された水谷は松下浩二に阻まれベスト8に終わる。当時の水谷はまだパワー不足で、アテネ銀の王皓に勝つ大金星を挙げたかと思えば、それより格下の選手にコロッと負けるなど成績は安定しなかった(記憶が定かではないが!)。

テレビ東京が世界選手権を放送し始める

 翌年、2006年の世界選手権は団体戦だった(卓球の世界選手権は一年ごとに個人戦団体戦が交互に行われる)。

 ちょうどこの頃、テレビ東京が卓球のテレビ放送を開始した。テレビ東京は現在に至るまで卓球に注力をしている。当時、世界選手権を見ようと思ったら、大会が終わった後にバタフライかどこかの発売するDVDを購入するか、海外の謎のサイトで英語や中国語で実況解説されている動画を数時間以上かけてダウンロードする他なかった(自分のPCのスペックが低かっただけかもしれないが……)。ITTFのサイトでスコアはリアルタイムで見ることができたから、私などはその数字を眺めて楽しんだものである(2005年のメイスVSハオ戦は最高だった)。そんな状況だったから、これは卓球ファンにとって朗報も朗報であった。

 しかし、テレビ東京のお目当ては当然のことながら女子であり、男子は放送されることはなかった……。女子はその年銅メダルを獲得するが、男子は放送されなくて当然の予選リーグ敗退であった。

再び世界の表彰台へ

水谷隼が日本を制す

 2006年まで、日本のエースは吉田海偉であった。全日本は連覇していたし、世界ランキングも吉田がトップを走っていた。

 しかし、2007年、ついに水谷が決勝で吉田を破り全日本の頂点に立つ。水谷の時代が幕を開けた。ここから水谷は5連覇し、13年連続で全日本の決勝に立つ。もう不安定だった水谷は過去のものとなりつつあった。

世界選手権団体戦銅メダル

 2008年の世界選手権は団体戦。この年、世界での経験を積んだ吉田・水谷に韓陽が加わった日本男子は、ついに銅メダルに輝く。

 しかも、準決勝の内容は、水谷が2敗を喫するもフルゲームの末に敗れるというほぼ互角の戦いを繰り広げたものだった。

 水谷はまだ20歳にもなっておらず、水谷以外の若手も有望な選手が多い。日本男子はこれから表彰台の常連になることを予感させる大会だった。事実、日本は5大会連続で表彰台に立つことになる。直近の表彰台は2000年だったが、そのさらに前となると、1981年まで遡らなければならない。時代が変わったのだ。

 また、この年はテレビ東京も男子の試合を放送した。これが抜群に面白かった。韓国戦で水谷が見せた曲芸的ラリーは素晴らしいものだった。私の願いは、この男子卓球の面白さを日本中に知ってほしいということのみであったーー。

リオデジャネイロオリンピック

 しかし、期待に反して北京オリンピックは奮わず。

 着実に実力を高める水谷。世界ランキングは一桁台にまで上り詰め、岸川とのダブルスでは銅メダルを獲得し個人戦でも表彰台に立つことになる。水谷に引っ張られるように松平、丹羽といった若手も現れ、世界ランキング50位以内に何人も日本人がいるのは当たり前の光景になっていた。

 が、ロンドンでも男子はメダル争いに絡むことができずに終わる。

 一方で、女子団体がついに銀メダルを獲得。実力的には遜色ないはずなのに、メディアでの扱いの格差は広がるばかり。必要なのは、もはや世界選手権のメダルではなく、オリンピックのメダルだった。

 そしてやってきた2016年のリオオリンピック。ここでついに水谷が実力を発揮する。シングルスで銅、団体で銀を獲得。オリンピックでは日本男子史上初のメダルに注目が集まり、水谷のプレーに日本中が魅了された。水谷隼カレーにも日本中が魅了された。ようやく、男子卓球が日の目を見ることになったのである。

立ちはだかる中国の壁

 こうなると、欲しいのはさらなる高み。世界一である。

 が、ここまで来ると中国という壁の高さを実感することになる。団体戦で世界2位になることと、世界1位になることは、難易度が全く変わってくる。

 中国の選手は尋常でなく強い。外国のどの選手より強い選手がうじゃうじゃいる。中国の選手が外国選手に負けるのは一年の間に数えるほどしかない。その上、下手に勝つと、対策をされ勝てなくなるのが常である。

 めったに勝てない相手に、大きな大会でピンポイントで勝つのは極めて困難である。日本は男女どちらも、何度も何度も中国の前に屈してきた。「中国との距離は縮まっている」とは、中国と重要な試合を戦うたびに毎度解説から聞かされる言葉である。しかし、一向に中国に大舞台で勝てる気配はなかった。

 だが、だからこそ中国に勝って世界一になることは、大きな名誉なのだ。

ついに超えた中国の壁

 そして東京オリンピック。混合ダブルスの決勝戦

 決勝戦の相手は、許昕と劉詩雯。2019年の世界選手権の王者。強敵という言葉で表すのが失礼なほどの、最強の敵である。劉詩雯に至っては2004年の世界ジュニアから数えれば、17年もの間、日本の前に立ちふさがってきた因縁がある。

 これを真正面から破ってついに伊藤美誠水谷隼のペアが悲願の金メダルを獲得した。そう、水谷隼がまた日本を新しいステージに引き上げたのである。

まとめ

 要するに何が言いたいかと言うと、水谷隼凄いということなのです。水谷隼の歴史=日本卓球再生の歴史と言ってよいでしょう。予選敗退当たり前の時代から世界の表彰台常連にまで日本卓球をお仕上げ、挙句の果てに、まさか最後の最後に(?)、金メダル獲得という大仕事をやってのけるなんて! 感動しかありません。

 日本の卓球界は、さらなる高みを目指さねばなりません。やはり常に中国と互角以上に渡り合えるようになることを期待したいところです。残念ながら、シングルスではまだまだ中国には及ばないということが改めてはっきりしました。

 しかし、日本女子初のシングルス銅メダルに悔し涙を流した伊藤美誠選手はまだ20歳です。伊藤美誠なら銅メダルは取るっしょくらいに思っている自分がいますが、冷静に考えるとこれは凄いことです。張本選手は18歳という若さながら世界ランキング3位に達したことがあります。今回は早々に敗退してしまいましたが、水谷選手だって最初のオリンピックでは良い結果は出せませんでした。落胆するには早すぎます。

 日本人がシングルスやダブルスや団体で世界の頂点に立つことは叶わぬ夢ではありません。それどころか近い将来に達成される可能性さえある。それが今回の金メダルで証明されたのです。