たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その79 イントレランス

 社会の風俗を正す矯風会が労働者階級の生活を正していく。

 

 『イントレランス』は1916年の映画。監督、脚本、製作はデヴィッド・ウォーク・グリフィス。

 

 この映画は次の4つの出来事に関するストーリーを並行的に映していく。

  • 現代に発生した冤罪事件
  • サンバルテルミの虐殺
  • キリストの磔刑
  • バビロニアの崩壊

 「なんだ群像劇か」と思うかもしれないが、一般的な群像劇は同じ時と場所を生きる人物たちを描くものだから、時代も場所も異なる物語を並行して描くというスタイルはなかなか珍しい。

 バラバラの物語を一本の映画にまとめあげているのは、一本のテーマ。不寛容(イントレランス)だ。

 それぞれのストーリーは比重が異なっていて、メインは間違いなく現代パートだ(それもそのはずでもともとはここだけで『母と法律』という作品を製作しようとしていたそうな)。矯風会なる品行方正な婦人たちが推進した法律によって、かえって治安が悪化する社会。その中でつましく暮らしていた夫婦が子を取り上げられ、挙句の果てに冤罪で死刑宣告を受ける。

 この物語に重ねて描かれるのがキリストの物語。矯風会はキリストを磔にしたパリサイ派とおんなじじゃ!とグリフィスは訴える。さらにダメ押しするように、カトリック(=不寛容によって死したキリストを崇める宗教)の不寛容によってユグノーが虐殺されるさまを描く。が、この二つのストーリーはあくまで添え物的な感じである。

 現代パートの次に厚みを持って描かれるのがバビロン編だ。新バビロニアの王子ベルシャザールによって奴隷の身分から解放された山ガールが、国家の存亡に関わる陰謀に気付き、ベルシャザールを救おうとする物語。このパートはセットやエキストラの数が壮大で、100年経った今なおもって圧巻としか言いようがない。(なお、『イントレランス』は興行的に失敗したため、この巨大セットは解体することもできず数年間廃墟として放置されたのだとか……。)

 ちなみに、このバビロン編の俯瞰ショット撮影のために足場を組んだことから、工事現場やライブ会場で仮説される足場のことを「イントレ」と呼ぶそうな。明日から披露していきたい雑学だ!

 この4つの物語を並行させることの真価が発揮されるのがクライマックス。冤罪を晴らすためのカーチェイス(『フレンチ・コネクション』式の汽車VS自動車である)、絞首刑のテスト、十字架を背負って歩くキリスト、ついに始まる虐殺、バビロンに迫るペルシャの大軍、馬車に乗って疾走する山ガール。これらが次々に映し出されるので、もう目が離せない。

 

 上記のとおり、この映画は1916年公開。当時はなんと第一次世界大戦の真っ最中。日本人にとってより身近なイベントを挙げると、日露戦争終結から11年しか経っていない。日本の民法が施行されたのは1898年で、そこから20年も経っていない……。そう考えると大昔としか思えないが、『イントレランス』を見るとそれほど昔のことでもないように感じる。この感覚は、ローマの遺構(特にコロッセオ)を見た時の感覚と近いかもしれない。一大叙事詩を描いた『イントレランス』だが、この映画自体が叙事詩の中に組み込まれつつある。

 この後、ハリウッドはヘイズ・コードという自主規制を始め、アメリカン・ニューシネマの時代に自主規制の殻を破っていくこととなる。まさに不寛容との戦いが映画の歴史と言っても過言ではないかもしれない。


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余談

 これまでアメリカ映画ベスト100を観てきた。今回で79作品目だが、このマラソンを始める前にすでに観ていた映画が21作品だった。

 つまり、この『イントレランス』でアメリカ映画ベスト100は制覇したということになる。そんなわけだから、今年の目標「アメリカ映画ベスト100を制覇する」はここに達成したということを宣言しておきたい。

 とはいえ、ブログ的に考えて「アメリカ映画ベスト100制覇への道」が「その79」で終わるのはなんとも気持ち悪い。だから視聴済みのものも再度視聴して記事にしていきたいとは思う。ただ、これから先はウイニングラン的な気分だということはここに記しておきたかったのである。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その78 我輩はカモである

 グルーチョ・マルクスがとある国の首相になる。

 

 『我輩はカモである』は1933年の映画。監督はレオ・マッケリー。主演はマルクス兄弟。この作品はゼッポも出演している。

 

 舞台はフリードニアという架空の国。財政難に直面した政府は大富豪のミセスティスデル(マーガレット・デュモン)に頼るしかなく、彼女の推薦するルーファス・T・ファイアフライグルーチョ・マルクス)を首相に迎える。例のごとく異常な言動を繰り返すファイアフライのおかげで政治は混乱し、ついには戦争が始まる……。

 という話。

 前々回の『キャバレー』が1930年代前半のナチスの台頭を描いていたが、ナチスが政権を取ったのは1933年。この映画が公開されたのと同じ年だ。『我輩はカモである』が何を風刺していたのかは推して知るべし。

反戦映画を分類する

 世の中に反戦映画は多い。一般庶民が平和を願うのはごく当たり前だし、逆に言えば戦争には人の心を揺り動かす力がある。色々な意味で映画にする価値がある。

 一口に反戦映画といっても色々なパターンがある。映画の大きな方向性を決めるのは、誰に焦点を当てるかだ。

兵士

 最もオーソドックスなのが、戦場の悲惨さを描くことだろう。『フルメタル・ジャケット』『地獄の黙示録』『プライベート・ライアン』『プラトーン』『MASH』などなど……枚挙にいとまがない。

 ここで追求されるのは「悲惨さ」の表現だ。人々がばったばったと死んでいくことほど分かりやすく悲惨さを表現できるものはない。が、人の死にはエンタメ性があるので、このタイプの映画には戦争をエンターテインメント化してしまう危険性が常に付きまとう。

民間人

 次に、戦場にいない人々への影響を描く映画もある。『我等の生涯の最良の年』『ディア・ハンター』『火垂るの墓』『この世界の片隅に』など。

 これは完全に推測だが、本土への攻撃をどれだけ食らったかの違いが日米の作風の傾向に影響をもたらしているはずだ。アメリカ映画だと戦争の残した傷跡(キーパーソンの消失、身体障害、失業、PTSDなど)がいかに社会を破壊するかが描かれるのに対し、邦画では兵士に焦点を当てた映画と同様、戦争の悲惨さが描かれることになりがち。(……と思ったけど、『シンドラーのリスト』や『ソフィーの選択』のような作品もあるなあ。)

政治家

 第三に、戦争を始める政治家に焦点を当てる映画もある。『独裁者』『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』。そして『我輩はカモである』もこれに当たる。念頭に置かれているのが未来の脅威であり、かつその脅威が具体的である場合には、この形式が最も説得力を持つかもしれない。

 反戦か否かにかかわらず、政治家を主人公にした映画は大きく三つのパターンに分けられると思う。一つは、政治家を英雄として描くもの。『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』『英国王のスピーチ』など。これは反戦映画にはなりえない。二つ目は、庶民が政治家になり政界に疑問を突きつけるパターン。『独裁者』や『スミス都へ行く』がこれだ。三つ目は、主流派の政治家を戯画化するもの。『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』と『我輩はカモである』はこれに当たる。

 問題は政治家をどのように戯画化するかだが、マルクス兄弟の場合、この点について深く考える必要がない。「もしもグルーチョ・マルクスが首相になったら?」という問いを立てるだけで、映画の形がぼんやりと浮かび上がってくる。マルクス兄弟(マーガレット・デュモンを含む。)自体がすでに戯画化されたキャラクターだからだ。しかも、詐欺師のグルーチョと簡単に騙される愚かな大富豪のマーガレット・デュモンの組み合わせは、まさに現実の政治を反映している。

 マルクス兄弟が最も輝けるストーリーラインがここにあった。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その77 ネットワーク

 解雇直前のニュースキャスターが番組内で自殺宣言したら視聴率爆上がりしました。

 

 『ネットワーク』は1976年の映画。監督は『十二人の怒れる男』でおなじみのシドニー・ルメット、脚本はパディ・チャイエフスキー。主演はピーター・フィンチ、ウィリアム・ホールデンフェイ・ダナウェイアカデミー賞は主演男優賞・主演女優賞・助演女優賞脚本賞を受賞。

 

 長年ニュースキャスターを務めてきた男ハワード・ビールが解雇された。視聴率を稼げないからだ。やけになったビールは「出演の最終日に自殺する」と生放送中に宣言。社内は騒然とする。翌日、ビールは自殺を撤回するが、ぶっちゃけトークは止まらない。歯に衣着せぬビールはたちまち視聴率を稼ぐスターになった。

 会社はビールを重用するようになるが、偽善を捨てた男ビールは諸刃の剣だ。彼はテレビ局のスポンサーに牙を剥く。困った上層部は、ビールを生放送中に暗殺することを決定する。

 

 資本主義を批判する作品はけっこう多いが『ネットワーク』ほど真に迫っている作品もあるまい。

 『ネットワーク』内における会社のルールはただひとつ。

「視聴率こそが正義」

 これだけだ。このシンプルな一つのルールが物語を前に前に進めていく。これは我々の社会のルールでもある。視聴率とは要するに金だからだ。

 「いやいや、お金よりも人間の方が大事だよ」と思うかもしれない。たしかに限られた領域ではそれは真実だ。視聴率第一主義の申し子であるダイアナは会社員としては華やかな生活を送っているが、家庭生活は崩壊している。ウィリアム・ホールデン演じるマックスの役割は、視聴率第一主義が失わせるものを見せることだ。

 それでも、マクロな社会の動向や会社という組織の意思を決定するのは金だ。これは間違いない。とはいえ、違法なことをして金が稼げなくなったら困るから普通はリスクの高いことはしない。そこで二つの状況が与えられる。

  • ビールの勤めるテレビ局は弱小で、特にニュース部門は大赤字を叩き出している。
  • 親会社から派遣されてきた人物が経営改革に取り組んでいる。

 要するに、リスクを取ってでも過激な番組作りをするためのインセンティブが登場人物たちには与えられている。

 彼らの前に、確実に視聴率を稼げるコンテンツ(=ビール)が突如として現れた。彼らはビールを(文字通り)祀り上げると同時に、ビールを通して、どんなコンテンツがウケるのかを学ぶ。可能な限り成長を求めるのが株式会社だからブレーキは存在しない。こうして番組作りは過激化の一途を辿る。

 こうして物語は落ち着くべきところに落ち着く。

 このストーリーの中に、現実に起きそうにないことはほとんど存在しない。最も非現実的なイベントは何かといえば、フェイ・ダナウェイが会社をクビになったウィリアム・ホールデンとくっつくことだろう。

 実際、この映画が公開された後の時代に、日本のテレビ局は殺人を生放送しているわけで、迫真を超えて予言の域に達している感さえある。

 ……と感じると同時に、この映画自身が作中の番組と同じ「欺瞞を暴く」系コンテンツになっていることになんとなく居心地の悪さを感じる。果たして私はこの映画に熱狂してしまってよいのか? 過激なコンテンツに簡単に踊らされてしまうのが人間の性だ。

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アメリカ映画ベスト100制覇への道:その76 ナッシュビル

 『ナッシュビル』は1975年の映画。監督はロバート・アルトマン、脚本はジョーン・テュークスベリー。主演は……たくさん。

 

 あらかじめ言っておくと、『M*A*S*H』に引き続き、私にはこの映画が全く理解できなかった。掴みどころのない映画だ。

 この映画に大きな一本の筋があるとすれば、「地元に凱旋した歌手がステージ上で射殺されるまでを描いた物語」と言えるかもしれない。彼女の名前はバーバラ・ジーン。ナッシュビルの空港に降り立ち、歩いているといきなり気絶してしまう。退院した彼女はステージに復帰するが、山崎まさよし的な感じでひたすら喋り続けて途中退場させられる。払い戻しのかわりに、後日やむなく大統領選挙キャンペーンのステージに立つことになる。そこで射殺されるというわけだ。

 だが、彼女がなぜ殺されなければならなかったのかは分からない。強いて言えば、マネージャーでもある夫が、メンタルの弱い彼女を働かせなければ彼女は死ななかったであろうというくらいだ。

 この筋に全く絡んでこない人物がいる。

 たとえば、マーサ。独特のファッションに身を包む彼女はいったいなんのために用意されたのか。彼女のストーリーは、周囲の男たちに目を奪われて、死にゆく叔母に顔を見せなかったということくらいしかない。この出来事を受けて彼女がどうしたということもない。たぶん何も感じていないだろう。

 たとえば、トム。ヤリチンの彼はだれかれかまわずやれる女とはやる男だ。彼と不倫したゴスペル歌手のリネア・リースは、彼女がまだ帰らないうちからトムが他の女に電話をするところを見る。

 たとえば、スーリーン・ゲイ。歌手志望の彼女はバーバラ・ジーンと同じステージに立つためにストリップをやる羽目になるが、バーバラが殺されたことに対する彼女のリアクションはほとんど映されない。

 こうして眺めてみると、彼らの物語はそこで完結していたことに気付かされる。

 歌の時間を差っ引くと2時間以内に収まるこの映画。登場人物が24人いるとすると、一人あたりの持ち時間は単純計算では5分程度だ。なるほど、登場人物ごとの濃淡があるとはいえ、映画らしい起伏のあるストーリーは期待できるはずもない。

 他愛もない彼らの物語には、共通点がある。他人への無関心だ。オーディオ・コメンタリーで、ロバート・アルトマン監督が「有名人を標的にするテロの目的は目立つことだ」みたいな感じのことを言っていたが、バーバラ・ジーンは他人に無関心な社会で注目を集めるために殺されたということかもしれない。

 一つ一つは弱いストーリーを束にして強固なストーリーを築き上げるのが群像劇だ。それぞれのストーリーをいかにまとめ上げていくかというところが群像劇のミソになるような気がするが、『ナッシュビル』ではストーリー同士の関連性は放棄するかわりに(?)、登場人物たちをなるべく一つの場所に集めたり似たような場所にいさせたりすることでまとまりを作っている。

 『ナッシュビル』はストーリー(=登場人物)の数を増やすことで、社会を表現することにチャレンジした作品なのかもしれない。

 ……何も書くことが思いつかないと感じていたが、いざ書き出してみると『ナッシュビル』とはそういう映画だったのかと見えてくるものがある。映画の感想(?)を書く意味がここにある。

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アメリカ映画ベスト100制覇への道:その75 キャバレー

 1930年代のベルリンにて、イギリスの学生がキャバレーの歌手とひとつ屋根の下暮らすことになる。

 

 『キャバレー』は1972年の映画。監督はボブ・フォッシー、脚本はジェイ・アレン。主演はライザ・ミネリマイケル・ヨークアカデミー賞は監督賞・主演女優賞・助演男優賞・撮影賞・編集賞・作曲賞・美術賞・録音賞を受賞。

 

 イケメンと美女が出会ったら、それはもう恋のはじまり。というわけで、『キャバレー』はラブストーリーだ。

 ラブストーリーはしばしば、二つの生命体が巡り合うその生息環境を描くことに主眼が置かれる。タイタニック』しかり『ウエスト・サイド物語』しかり。『キャバレー』もそんな作品の一つかもしれない。

 『キャバレー』の主な面白ポイントは、やはりタイトルにもなっているキャバレーで働いている人々を描いていることにある。そこには様々なマイノリティがいるだけでなく、ステージ上で光を浴びてさえいる。

 ヒロインのサリー・ボウルズもその一人だ。彼女はスターを夢見る歌手だが、身体を売る娼婦でもある。

 ラブストーリーでは一途さが尊ばれることが多い。一夫一婦制の社会では当然のことかもしれない。一途さを究極まで突き詰めると、童貞と処女にたどり着く。

 その点、サリーは真逆を行く存在だ。それなのに、なぜサリーは魅力的なのか?

 「一途である」を嫌な感じに言い換えると「死ぬまで添い遂げられると確信した相手以外は全て拒絶する」である。自分が運良く対象になれればいいが、そうでなければちょっとショックだ。

 これを裏返すとサリーの魅力になる。サリーには「こんな自分でも受け入れてくれるんじゃないか」感がある。主人公のブライアンはイギリスの良い大学に籍を置くイケメンだが、女性で勃ったことがない。当時のイギリスにおいてこれは重罪なのだが、サリーは赦してくれる

 だが、恋愛において、これはリスクだ。だって彼女の赦しは自分にだけ向けられるものではないから。他の男にも彼女の愛は注がれてしまう。特にイケメンの金持ちが現れた日にはどうなることやら……。

 彼女のオープンなところが好きになったのに、クローズドな関係に彼女を閉じ込めたいという矛盾。結局、この矛盾が二人の関係を終わらせることになる。

 ラブストーリーが美しく輝くのは、愛と社会が対比関係にあるときだ。『キャバレー』と言うからにはフランスが舞台化と思いきや、意外にも舞台はドイツ。時は1930年代、ナチスが政権を握る前夜である。

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 初めてライザ・ミネリが動いているところを見た。ジュディ・ガーランドに瓜二つではないくゎ!(でも、じっくり写真を並べてみると、目元はヴィンセント・ミネリ譲りのようだ。)高校生の頃に『オズの魔法使い』と『若草の頃』でジュディ・ガーランドに魅了された私としては、なんだか感慨深いものがある。

キングオブコント2023 なぜサルゴリラが優勝したのか?

 2023年10月21日、キングオブコント2023が開催され、サルゴリラの優勝で幕を閉じた。

 第一ステージの結果は次のとおり。

  1. サルゴリラ 482点
  2. カゲヤマ 469点
  3. ニッポンの社長 468点
  4. ファイヤーサンダー 466点
  5. や団 465点
  6. ジグザグジギー 464点
  7. ラブレターズ 464点
  8. 蛙亭 463点
  9. 隣人 460点
  10. ゼンモンキー 456点

 今回は全体的にハイレベルな戦いだったように感じたが、見ていて気付いたことがあるので書いていきたい。

コントには型がある

 どうやらコントには型があるらしい。今回の決勝戦では、ほぼ全てのコント師が下のようなパターンに沿ってネタを構築していた。

  1. ルールの提示
  2. ルールの確認
  3. ルールの限界の確認
  4. ルールの再確認
  5. 逆転

 それぞれのネタを具体例として当てはめていきながら、勝敗を分ける要素がなにかについて考えてみる。

ジグザグジギー

 最も典型的なのがジグザグジギーのネタだ。

 お笑い芸人出身の市長が就任記者会見を行うが、どうにもお笑い芸人の頃の癖が抜けきらないというのがざっくりとしたおもしろポイント。

 より具体的には、「市長は政策を大喜利風に発表する」という、このコント内のルールが最初に提示される。コントの中で最も笑いになる要素であり、コントの軸になるのがルールだ。ルールを提示するくだりが文字→絵→市民からの要望という変化を経て一段落がつく。

 次に、記者からの質問が始まる。案の定、市長は大喜利のノリで回答を発表する。これは「市長は政策を大喜利風に発表する」というルールが実際にはもう少し広いものだったことを確認するパートだ。「市長は政策を大喜利風に発表する」し、「市長は記者からの質問にも大喜利風に回答する」。まとめるなら、「市長は全てのやり取りを大喜利風に行う」とでも言うところか。

 ところが、次の質問で市長のスキャンダルに関する質問が飛ぶと、市長は記者を無視する。自分に都合が悪いことだから答えないのか? と思いきや、最初の記者の質問には同じ質問でも市長は答える。ここで行われていることはルールの限界の確認だ。「市長は全てのやり取りを大喜利風に行う」が、「記者の質問も大喜利風に行われている場合に限る」ということが分かる。これによりルールの全貌が明らかになるのだ。

 あとはクライマックスだ。記者は笑点風に質問をする(「今から私が~と質問しますので答えてください。そしたら私が~と聞きますので、~をお答えいただきたい」みたいなやつ)。市長は確実に回答するだろう。実際にそうなる。ルールの再確認だ。

 市長の回答を受けて、記者が言う。

「広報の池田くん。座布団持ってきて」

 ここで行われているのは逆転だ。最初のシチュエーションから何かが逆転している。これによってオチがつく。ここでは、場を支配していたのは市役所だったはずなのに、記者が場を取り仕切るようになっている、という逆転が起きる。

 基本に忠実な、完成度の高い美しいネタだ。ルールの提示までおよそ32秒という早さとルールの強力さ(=市長が大喜利風に話すことの面白さ)にも注目したい。

審査員のコメント

 この型を頭に入れてから見ると、審査員のコメントから読み取れるものも変わってくる。彼らは確実にこういうコントの仕組み、笑いを生み出すシステムを踏まえた上でコメントをしている。

 ロバート秋山は、大喜利をやるときの顔についてコメントしている。これは「ルールの提示」の巧みさを評価しているのだ。上では当たり前のように書いたが、「市長は政策を大喜利風に発表する」というルールを観客に一発で分からせるのは容易ではない。なぜなら、フリップに書いてあることの中身はいたって一般的な政策にすぎないからだ。もちろん、政策の中身をふざけたものにすれば簡単にルールを提示することができる。が、それでは「ここは真面目な就任記者会見の場だ」という設定が初っ端から崩れることになりかねず、おそらく笑いも半減するだろう。だから、ジグザグジギーはあえてフリップの出し方だけで分からせる困難な道を選んだ。彼ら(というか宮澤聡)は見事にこのミッションを果たしたのだ。

 一方で、東京03飯塚は記者が大喜利風に質問をするとかそんなわけないと思っちゃいましたと述べる。これはネタがあまりに型どおりにはまりすぎていることを指摘している。ジグザグジギーは初手で真面目な記者会見の場という設定を守り通したにも関わらず、最終的には設定が少しだけ崩れている(記者もふざけたおちゃらけ記者会見になっている)。なぜそうなったかといえば、上に書いたような型に沿った展開をするためにはそうするしかなかった、またはそうするのがベストだと判断したからだろう。逆に言えば、設定よりも型を重視してしまったというわけだ。なんでもかんでも型にはめればいいわけではない。コントの難しさがここにある。

 かまいたち山内は芸人あるあるを見たかったとコメント。これは設定とルールが完全にはマッチしていないことの指摘だ。「市長は元お笑い芸人だから、大喜利のノリで生きている」。一見、筋が通っているように感じるが、一般的にお笑い芸人は大喜利をやるだけの存在ではない。漫才なりコントなりギャグなり、大喜利以外のこともやるはずだし、むしろメインはそっちの方だろう。にも関わらず、ジグザグジギーのネタはあまりに大喜利に偏りすぎている。ということを言っているのだと思われる。本質的には飯塚の指摘に近い。

ゼンモンキー

 逆に、自然な流れを重視して構成されているのがゼンモンキーのネタだ。

  1. 男二人の喧嘩が、神頼みをする高校生に邪魔される。(ルールの提示)
  2. 喧嘩そっちのけで男たちは高校生と会話を始める。神頼みする高校生の態度が批判される。(ルールの確認)
  3. 高校生も男たちの恋のライバルだと判明し、恋の三国志の開戦が宣言される。(ルールの限界)
  4. 再び高校生の賽銭で喧嘩が中断する。(ルールの再確認)
  5. 高校生の祈りが通じ、彼が恋の勝者となる。(逆転)

という流れ。

 無理がない反面、意外性に乏しく展開が読めてしまうのが難点だ。ついでにいえば、ルールがやや曖昧かつ少し弱いかもしれない。

 自然であることと、笑いを生む強力な仕組みのどちらが重要かといえば、やはり後者なのだ。(少なくとも、こういう大会においては。)

隣人

 全てを不自然にすることで設定の破綻を避けるという方法もある。

  1. 高い声でホアアアッみたいに言えばチンパンジーも落語を理解する。(ルールの提示)
  2. チンパンジーが落語家にお辞儀をする。(ルールの確認)
  3. チンパンジーがそばを啜れず、バナナの皮を剥いてしまう。(ルールの限界)
  4. 落語家に見捨てられたくないチンパンジーは、そばを啜れるようになる。(ルールの再確認)
  5. チンパンジーが脱走する。(逆転)

 こちらはルールもなかなか強力に思える。にもかかわらず点数が伸びなかったのは、松本人志が指摘するようにルールの提示が笑いのピークだったからだろう。

 ルールの提示がピークになってしまったのは、落語家がチンパンジー化して以降、ルールが広がっていかない(あるいは狭まっていかない)というところが原因ではなかろうか。

や団

 対照的に、「ルールの適用範囲がどこまでなのか?」をコントの軸にしたのがや団だ。

  1. 演出家がキレると灰皿を投げつける。(ルールの提示)
  2. グレーがことごとく演出家をキレさせる。(ルールの確認)
  3. 重い灰皿を投げるのを躊躇し、ペットボトルは躊躇なく投げつける。(ルールの限界)
  4. ペットボトルが潰され、重い灰皿だけが残される。(ルールの再確認)
  5. 怖い演出家が赤ジャージの演技を容認する。(逆転)

 ジグザグジギーや隣人に比べるとルールのパワーは劣る。「演出家がキレると灰皿を投げつける」なんて、暴力的だしそれ自体に面白みはない。面白さの比重は、灰皿を投げつけられても気にしないグレーの態度に寄っている。

 それでも、や団はジグザグジギーを上回った。巧みな構成がパワー不足を補っているのだ。

 一つには、小ボケが散りばめられている。演出家が謎の言葉を使ったり、赤ジャージのシャツに的が書かれていたり。

 より重要なのが、ルールの限界の明示をクライマックスまで引っ張ることによって、緊張感を最後まで維持していることだ。「ガラスの灰皿を演出家は投げるのか? 投げないのか?」この謎が観客をコントに引き込んでいく。

 明確なルールをいかに展開させるかが重要なのである。

ラブレターズ

 一口にルールの展開といっても、展開のさせ方には、実は二つの種類がある。

 一つは、や団やジグザグジギーのように、ルールの発動条件を試していく方法。

 もう一つは、ルールの発動結果に広がりを持たせる方法。これで盛り上がりを作ったのがラブレターズだ。

  1. 犬が吠えると壁ドンの応酬が始まる。(ルールの提示)
  2. 人間が吠えても壁ドンの応酬が始まる。(ルールの確認)
  3. 吠えているのが人間だと聞き分けられた場合は壁ドンされない。(ルールの限界)
  4. 壁ドンが爆竹に発展し応酬がヒートアップ(ルールの再確認)
  5. 彼女の実家がどうかしていることを痛感する。(逆転)

 ルールの発動条件(「犬が吠えると」)は少し曖昧で広がりを見せず、ルールの発動結果(「壁ドン」)がどんどんエスカレートしていく。ニッポンの社長も同じ構成だ。

カゲヤマ

 ルールの明確さ、広がり、強力さ。三拍子揃ったのがカゲヤマだった。

  1. 襖の右側を開けると先輩がおそらく全裸で土下座している。(ルールの提示)
  2. 襖の左側を開けても先輩がおそらく全裸で土下座している。(ルールの確認)
  3. 下半身は履いていた。(ルールの限界)
  4. 一旦、謝罪が終わった後に、再び先輩が全裸で土下座する。(ルールの再確認)
  5. 取引先は激怒している。(逆転)

 襖越しにすることで、「先輩は裏でいったいどんなことをしているのか?」という謎も生んでいる。

 しかも、このネタはルールの展開が両方向で行われる。ルールの確認では「右の襖を開けたらどうなる」「左の襖を開けたらどうなる」のようにルールの発動条件を展開させている。ルールの再確認では全裸→立つ→クロス引き→まゆゆとルールの発動結果をエスカレートさせていっているのだ。

 全要素がハイレベルでありながら、それぞれの要素が喧嘩してもいない。完璧だ。

型を破る

 コント作りに型が存在することはほぼ確実だ。

 キングオブコントの真理が明らかになった。誰よりも型を極めた者が勝つのだ。ただし、みんなが型どおりのコントを作れば、の話だが。

 そう、キングオブコントの勝者は、型を極めた者か、型を破った者のいずれかに決まる。

蛙亭

 蛙亭は少し型から外れたことをしている。蛙亭のコントにはルールが二つある。

  1. ルールA「男はキックボードを使うとコケる」&ルールB「男はわけのわからない主張をする」の提示
  2. 寿司がぐちゃぐちゃになるより恋人にフラれる方が辛いという女の主張に対し、男はルールBを発動させる。
  3. 女が恋人とよりを戻せる限りにおいて、男の言い分には道理がある、という形でルールBの限界が示される。
  4. 去った女を追う時にルールAが発動する。
  5. 男が玉子コーデであることに女は納得する。

 ルールが二つあるうえに、ルールBがやや抽象的だ。本来ならばルールBは「男は恋人にフラれるより寿司が潰れる方が悲惨だと主張する」とでもしたいところだが、これだとルールBの限界を説明できないからこうするしかない。

 型など考えずに自由に作られたコントを無理やり型に当てはめているだけでは、とも思う。が、少なくとも無理をすれば、蛙亭のコントは型に当てはめることができるとも言える。(そもそも型に欠陥があるのかもしれないが、より適切な形に変えるのが難しそうなので今日はこのまま行く。)

 蛙亭は8位に留まったが、これはルールAがクライマックスに使うには少し弱かったからかもしれない。

ニッポンの社長

 もう一組、二つのルールを用いたコンビがいる。ニッポンの社長だ。

  1. 刺されても死なない。(ルールの提示)
  2. ピストル、手榴弾、ショットガンでも死なない。(ルールの確認)
  3. 地雷を喰らえば流石に死にかける。(ルールの限界)
  4. 死にかけはただの演技だった。(ルールの再確認)
  5. ケンジがユウコを追いかける。(逆転)

 これの裏で働いているのが、「殴られたら刺す」というルールだ。観客は最初、「殴られたら刺す」がこのコントの軸だと思ってしまう。爆発力は抜群だ。死ほど観客の興味を引くものはない。その上で、時間が経つうちに、観客が真のルール「刺されても死なない」に気付くという二段構えの仕組みになっている。

ファイヤーサンダー

 ファイヤーサンダーもルールに工夫を持たせている。これまでのルールは登場人物の行動に関するものだった。対して、ファイヤーサンダーのルールはただの事実だ。

  1. サッカー日本代表のものまね芸人が存在する。(ルールの提示)
  2. 監督や新しい代表選手にもものまね芸人が存在する。(ルールの確認)
  3. ゼロから何かを生み出すことはものまね芸人にはできない。(ルールの限界)
  4. 日本代表に選出されずともネタになる場面さえあればものまね芸人の飯の種となる。(ルールの再確認)
  5. ものまねの対象が日本代表から外れたが、小西田は格好のネタを獲得する。(逆転)

 事実は動かせないから、このネタを展開させていくのは難しいはずだ。特にルールの提示で笑いを取るのは困難を極めるはずだが、ファイヤーサンダーは「本物の日本代表候補と見せかけてものまね芸人だった」とミスリードを使うことでクリアした。審査員にもそういった点が評価されたように見える。

サルゴリラ

 蛙亭ニッポンの社長ファイヤーサンダー三者は、型に変化を加えることで独自性を出そうとした。

 これに対し、型の破壊と再構築を選んだコンビがいる。サルゴリラだ。

 サルゴリラのコントは以下のパターンで構成されている。

  1. ルールの提示
  2. ルールの確認
  3. ルールの破綻

 具体的に当てはめると以下のような感じだ。

  1. マジシャンは分かりづらいマジックをする。(ルールの提示)
  2. マジシャンは再び似たようなマジックをする。(ルールの確認)
  3. マジシャンは気持ち悪いマジックをする。(ルールの破綻)

 他の競争相手が全て同じ型を用いている中、一組だけ型を破壊した。だから観客は展開が読めない。しかし、ルールは明確で、強力で、展開もしていく。小ボケも散りばめられている。そこは外さない。結果、一味違う笑いが生まれた。

 ただ、これは賭けだったはずだ。ルールを破綻させることが吉と出るか凶と出るか。それまでの流れを完全に無視すればきっと滑る。「これまでAだと思っていたルールは実はÅだったのか」と観客が思うくらいの塩梅でなければならないが、安全にいきすぎると爆発力は失われる。絶妙なバランス感覚が求められるに違いないし、なによりどう頑張ったってオチが弱い。型破りも失敗すれば形なしだ。

 サルゴリラは勇気ある賭けに挑んだ。そして、勝ったのだ。

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アメリカ映画ベスト100制覇への道:その74 ラスト・ショー

 高嶺の花は親友と付き合ってるから、自分は先生の奥さんと不倫するぜ!

 

 『ラスト・ショー』は1971年の映画。監督・脚本はピーター・ボグダノヴィッチ。脚本には原作者のラリー・マクマートリーも参加。出演はティモシー・ボトムズシビル・シェパードベン・ジョンソン、クロリス・リーチマン。

 

 1971年にはすでにカラーが一般的だったはずだが、この映画は白黒。そこには当然、意図が込められている。

 タイトルは"the last picture show"で、潰れる映画館の最後の上映を意味している。舞台は1950年頃のテキサス。映画館は押し寄せるテレビの波に揉まれて消えていく。

 というわけで、この映画は「消えゆくもの」を描いている。だからすでに廃れていた白黒映画にしたというわけだ。もっといえば、アメリカン・ニューシネマ以前の古き良き映画を表しているかもしれない。

 映画とテレビには決定的な違いがある。映画は映画館にみんなで集まって見るものだが、テレビは家の中でもっぱら家族で見るものだということだ。実際、映画の冒頭で主人公が恋人と落ち合うのは映画館だ。映画からテレビへの移行は、関係性の喪失も表している。

 

 高校生の主人公サニーは付き合って一周年だというのに挿入させてくれない恋人を振る。サニーが本当に好きなのは、親友のデュエーンと付き合っている美しいジェイシーなのである。

 フリーになったサニーは、体育教師の奥さんルースと不倫関係になる。こっちはインサートさせてくれそうだったからだ。

 サニーはオープンでお硬い恋人(=ヘイズ・コード時代の映画)からクローズドで緩い人妻(=テレビ)に移行する。緩いといっても尻軽なわけではなく、夫に見放された寂しい人妻であることは言い添えておこう。

 そんなサニーを、淫乱と化したジェイシーが襲う。全裸プールパーティーに参加してからというもの、性に興味津々となったジェイシーにとってサニーは格好の餌食だったのである。サニーが誘惑に負けることは言うまでもない。若くて美人でほぼ確実にゴールインできる女性と初老の人妻。どうして後者を選ぶことがあろうか? テレビのチャンネルを変えるように、性交渉の相手も乗り換え自由。それがこのゲームのルールなのだ。

 しかし、二人の結婚はジェイシーの親に阻まれる。おそらくはサニーがルースと不倫していることが知られているからだろう。ジェイシーはダラスの大学に行ったっきり帰ってこなくなってしまう。きっと相変わらず奔放な性生活をエンジョイしているに違いない。

 ジェイシーも、デュエーンも、その他の大切な人々も失ったサニーは、ルースのもとに帰っていく。目先の欲望に負けて弱者を踏みにじることの愚かさを彼は知ったのだ。

 

 ポイントは、ルースがサニーに比べると老いた女性であることだろう。彼女にも若い頃があったはずで、新婚の頃には夫との間に愛があったかもしれない。サニーが全てを失うよりも前に、ルースは全てを失っていた。この映画で描かれているようなことは、歴史上、形を変えて何度も繰り返されてきたのだ。

 サニーの行いは愚かなものだったけれど、果たして彼に正しい道を歩む余地はあったのか? そもそも正しい道とは? 結局のところ、誰にも正しい選択など分からない。仮に分かったところで、自分の力で変えられることなどたかが知れている。出会い別れるのが人生なのだ。

 この世に永遠のものなど存在しない。映画監督が頑張って永遠の美を表現したとしても、観客が感じるのは虚しさだけだろう。映画の中では永遠のように描かれていても、後日談では滅びているのだろうと考えてしまう。さもなければ、こんなものは嘘っぱちだと白けた気持ちになる。

 だが逆に、諸行無常を感じる時、人の心には永遠への憧れが生じる。その時、人は永遠がいかに美しいものかを思い描いている。人が永遠の美しさを感じるのはこの瞬間なのだ。

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