たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

卵と納豆を前にした時、私たちは人生を問われている

今週のお題「納豆」

 

 幼い頃の私にとって、祖父母の家に帰省した時にだけ食べられるスペシャルな食べ物があった。

 納豆卵かけご飯である。

 黄金に輝く卵の黄身。無数の泡の中に沈む大粒納豆。湯気を上げる白米の上にかけていく。それが私にとっては何にも勝る御馳走だった。

 今にして思えば、納豆はせいぜい1パック100円。安いものなら20円前後だろう。そして卵は高騰気味の今ですら1個あたり20円程度で購入できる。つまり、私の御馳走は100円にも満たないものだった可能性が高い。

 だが、それは納豆卵かけご飯が思っていたほど価値がなかったことを意味するわけではない。値段で味は変わらない。同じ美味なら安いほうが便益とコストの差が大きいわけだから、むしろ思っていた以上に価値が高かったとさえ言って良い。

 肝心なのは、もしあの時、卵を納豆と混ぜずに目玉焼きにしていたら、私はどう感じていただろう?ということである。

 言うまでもなく、私はいつもと変わらないごくごく平凡な朝食だと思ったはずだ。(さらに言うなら、卵を使って目玉焼きを作るのは納豆と混ぜるよりもわずかにコストが高い。)

 全く同じ食材を使っているのにも関わらず、達成されるものには天と地ほどの差がある。これは重大なことを意味している。

 

「あなたの手元に卵と納豆がある。さて、あなたは何を作る?」

 

 これは我々が人生において常に問われ続ける問題だ。

 例えば、サッカーの日本代表監督ならば、伊東や三笘などの優れた選手をどのフォーメーションのどのポジションに置いて、どう連携させるかが問われる。同じ選手を用いても、それをどう使うかで結果は全く異なるはずだ。

 さらに別の例を挙げれば、江戸末期と明治初期。日本国民の顔ぶれはほぼ同じだっただろうが、それぞれは似て非なる社会だったはずだ。

 私たちの手元には様々な食材がある。何を持っているのかは人によって異なるが、自分の手持ちで料理をしなければならないことは誰にとっても変わらない。

 卵を使って目玉焼きを作ることも間違いではない。栄養の面から見ればそちらの方が良いかもしれないし、目玉焼きの方が好きな人もいるだろう。何を作れば良いのかもまた、人によって異なるというわけだ。

 私にとっては、卵かけ納豆ご飯こそがたまにしか食べられない御馳走だった。総額100円にも満たない食材で作れる料理が、ステーキよりも、蟹よりも記憶に残っている。

 親の実家で食べた卵かけ納豆ご飯は、私に人生の可能性を教えてくれていたのだ。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その73 フレンチ・コネクション

 粗野な大男と理性的な細面の警官コンビが、ヘロインの売人に迫る。

 

 『フレンチ・コネクション』は1971年の映画。監督はウィリアム・フリードキン、脚本はアーネスト・タイディマン。主演はジーン・ハックマンアカデミー賞は作品賞、監督賞、主演男優賞、脚色賞、編集賞を受賞。

 

 『許されざる者』(1992)にて恐怖で街を支配する保安官を演じていたジーン・ハックマンが、麻薬の売人を追う警官を演じている。正義の味方であるポパイと悪役であるリトル・ビル。映画上の立場は真逆だが、役柄のイメージはほぼ同じ。ジーン・ハックマンは、乱暴だが正義感が強く凄腕の警官を演じるのがめっぽう上手い。強い正義感は時に狂気と化す。

 そう、この物語の主人公であるポパイも、狂気を孕んでいる。

 彼の狂気、そしてこの名作を象徴するのが、カーチェイスのシーンだ。ただのカーチェイスではない。電車を自動車で追うのだ。高架下の道路を爆走するポパイ。当たり前だが、道路には何も知らない無数の車が走っている*1。ぶつかりそうになったり、実際にぶつかったりしながら電車に追いつき追い越す*2。主人公が良識ある人間だったら決してできないアクションだ(良識ある制作者にはできない撮影でもある)。ポパイにはそれができてしまう。車も善良な市民から強奪したものだ。ダメ押しに、暗殺者を発見したポパイは、武器を持たずに逃げようとする敵を背後から射殺する。(ちなみに、『フレンチ・コネクション』は実在の事件を題材にしており、主人公たちのモデルになった警官たちは現場で監修を行っているし、出演もしている。)

 ポパイの狂気は、映画のラストにおいて究極の形で爆発する。執念の捜査の末、ついに麻薬取引の現場を押さえた警察。単独で大物を追うポパイだったが、その際に仲間を撃ってしまう。それでも動揺は見られない。彼の目にはターゲットしか映っていないのだ。

 どう考えてもポパイはヤバい奴である。そういう奴には理知的な相方が必要だ。その役割を担うのが、後に『ジョーズ』でカナヅチの警察署長を演じるロイ・シャイダー。陰気に見えるから、あだ名はクラウディ。バッドコップを演じるポパイに対して、クラウディはグッドコップを演じる。

 警察官なのにヤバい奴と対置される敵は、どんなキャラクターであるべきだろうか? ポパイよりもっとヤバい奴? いや、それだとポパイのヤバさが薄まってしまう。したがって、敵は犯罪者なのにまともそうな奴であるべきだ。

 というわけで、ポパイにとって本命の相手であるアラン・シャルニエは、フランスの実業家。副業としてヘロインを売っている。金持ちの彼はポパイより良い暮らしをしているのは当然のこと、振る舞いも紳士的に見える。

 『大統領の陰謀』や『チャイナタウン』と同じように、ポパイとクラウディはさりげない手がかりに直感が働き、地道な調査により大物のシャルニエにたどり着く。事件の核心から遠いところから物語は始まるのだ。

 このさりげない手がかりとなるのが、ナイトクラブで妙に大盤振る舞いをしている見知らぬ夫婦だった。追跡してみて判明した彼らの昼の姿は、しがない軽食屋の店長夫妻だった。街の風景に埋没しそうな平凡な夫婦が、実は麻薬の売人だったのだ。

 犯罪は日常の中に溶け込み、犯罪者と正義の味方はごくごく近いところにいる。悪が我々の生活から隔絶された場所にあるわけではないことを、『フレンチ・コネクション』は描いている。

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*1:その中には当然スタントカーもあるわけだが、本当に何も知らない一般カーもかなりあったらしい。これは映画全体に言えることで、その他のシーンで街中を歩く人々も一般ピーポーだそうな。

*2:計算された衝突もあれば、予定外の衝突もあった。ちなみにポパイが映るカットの運転はジーン・ハックマン自身で行っているのだとか

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その72 M★A★S★H マッシュ

 『M★A★S★H マッシュ』は1970年の映画。監督はロバート・アルトマン、脚本はリング・ラードナー・ジュニア。主演はドナルド・サザーランドアカデミー賞は脚色賞を受賞。

 MASHとは、陸軍移動外科病院 (Mobile Army Surgical Hospital) のことだそうです。

 

 戦争映画なのに、戦場は一切描かれないし、コメディーという異色の作品。でも、病院の描写は必ずしもふざけていないし、反戦のメッセージ性は感じることができる。

 かなりの部分を役者のアドリブに任せて作られているようで、異常だと感じた主演俳優たちが監督を下ろそうと画策したり、ほとんど脚本の原形を留めていないことに脚本家がブチギレたりしたそうな。

 

 この映画は主に以下のシークエンスで構成されている。

  1. 気に入らない先輩医師の情事を盗聴した後、罠にはめてクビを飛ばす。
  2. 自身をインポテンツだと思い込み自殺を図ろうとしている巨根の同僚を寝てる間に昇天させる。
  3. 女上司がシャワーを浴びている時にテントを吹っ飛ばして衆人環視に晒す。
  4. 小倉の米軍病院のトップを薬で眠らせて舞妓と寝ている写真を撮る。
  5. 告発されたけど別に罰せられることもなく、軍の偉い人のチームとアメフト勝負をして勝つ。

 いやはや、コメディーにしても酷い話である。これが笑えるのかどうか私にはよく分からない。戦争の愚かさを笑うにしても、軍に忠誠を誓っている女性将校を侮辱するのは対象もやり方も間違っているように思える。*1

 ただ、酷い話であることが重要なのかもしれない。この映画は戦争の狂気を描いている作品だから。ここで日和ってマイルドなコントにしていたら、内容によるかもしれないがたぶん名作扱いはされていないのだろう。

 そもそも、まだベトナム戦争が続いている中で、反戦的な映画を作ること自体がリスキーなことだった。これを公開まで持っていくために、会社の上層部の注目を集めないよう、監督はとにかく安く、目立たないように制作を進めたそうな。完成が近づいていくとさすがに隠し続けることはできなくなったようで、「グロテスクな手術のシーンはカットしろ」だの「fuckと言っている部分はカットしろ」だのと口出しされたが、そうした要求は全てはねのけたんだとか。

 映画作りにも狂気が必要なのだ。……ということにすればとりあえずオチがついた感が出るので、そういうことにしておこう。

 

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*1:ただ、これは私が戦争を起こすのはお上だと考えているからかもしれない。民主主義的に考えれば、我々一人一人に戦争の責任があるわけだから、戦争に肯定的な人はやはり笑いの対象として当然なのか。だが、軍に愛着を持っていることと戦争を肯定することはまた別なのでは……みたいなことを考えていくとわけがわからなくなってくる。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その71 シックス・センス

 小児精神科医が救おうとした少年は霊感の持ち主だった。

 

 『シックス・センス』は1999年の映画。監督・脚本はM・ナイト・シャマラン。主演はブルース・ウィリスハーレイ・ジョエル・オスメント

なぜ幽霊を見られるのか?

 幽霊系のホラー映画において大事なポイントは、「主人公はなぜ幽霊を見ることができるのか?」にある。普通の人は幽霊なんて見たことがないし、見えるわけがない。

 よくあるパターンは、「呪われたから」。『呪怨』とか『リング』とか『呪詛』とか。場所が呪われているパターンもこれに含めてよいだろう。

 もう一つのパターンは、「霊視の才能があるから」。小野不由美の『悪霊』シリーズあたりがたぶんこれに当たる。

 どちらを選ぶのかによって、物語のテイストはだいぶ変わるはずだ。前者の場合は実質的に『ジョーズ』と同じ形式だが、後者の場合はおそらく探偵映画やスーパーヒーローものに近づいていく。霊視の才能がある人は、その才能を活かして人々を救うのだ。

 『シックス・センス』は後者だ。ただし、才能の持ち主はその才能に苦しめられている。これは、一人の少年が自分の才能に気付くまでの物語なのだ。

あらすじ

 主人公マルコムは小児精神科医。かつて面倒を見た少年ヴィンセントが大人になって自分と心中しようとした事件があり、前にも増して、苦しむ子供を救うことに執着している。そのせいで妻との関係も悪化している。

 彼の前に現れる一人の少年コール。マルコムはコールと対話を重ね、彼の秘密を教えてもらう。コールには幽霊が見えるというのだ。

 ここから観客は、コールの目に映る世界を見ることになる。家にも学校にも死者がいる。まるでお化け屋敷のような日常。そんなことを誰かに理解してもらえるはずもなく、コールは親を含む周囲から不気味がられる。このおぞましい世界に少年はたった一人で耐えてきたのだ。

 精神病だと思い信じていなかったマルコムだが、ヴィンセントも同じ現象に苦しんでいたことを悟り、コールにアドバイスを贈る。「(幽霊の言葉を)聞いてやるんだ」

 勇気を振り絞ってコールは幽霊との対話を試みる。その結果、コールはとある家族を救うことになる。

 コールは霊だけでなく、母親ともコミュニケーションを取ってみることにする。自分には霊が見えることを伝えるのだ。コールは母親と和解する。

 そんなコールを見習って、マルコムは妻とのコミュニケーションを試みる。二人の間の誤解は解け、マルコム自身も救われることになる。

自分の見たいものだけを見る人々

 要するに、最初は自分の特性に悩まされていた少年が、パートナーのサポートを得て、その特性が才能であることに気付く。パートナーもまた、その経験をきっかけにして救われる。という普遍的な王道のストーリーだ。

 だが、そこで終わらないのが『シックス・センス』の名作たる所以だ。

 『シックス・センス』の幽霊には一つの特徴が与えられている。それは「幽霊は自分の見たいものだけを見る」というもの。実は、これは生きている人間の特徴を誇張したものにすぎない。誰だって自分の見たいものだけを見ている。人の苦しみの大半は、自分の見方を変えられないことに起因する。

 コールも、マルコムも、他の人々も、自分の見たいものだけを見て、それが真実だと思いこんでいる。だけど、自分の見方が一面的だったことに気付きさえすれば、違った世界が見えてくる。他者(幽霊を含む)とのコミュニケーションは気付きのきっかけになる。霊視能力が才能であることが分かったように。

 当然、観客だって、見たいものだけを見ている。

 『シックス・センス』は、コール、マルコム、そして観客に新しい視点を与える映画なのだ。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その70 明日に向かって撃て!

 地元で恐れられていたギャングが、鉄道会社の雇った最強の保安隊に追われる。

 

 『明日に向かって撃て!』は1969年の映画。監督はジョージ・ロイ・ヒル、脚本はウィリアム・ゴールドマン。主演はポール・ニューマンロバート・レッドフォードアカデミー賞は撮影賞、脚本賞、作曲賞、主題歌賞を受賞。

 

 『ワイルドバンチ』と同じく壁の穴ギャング(=ワイルドバンチ)をモデルにした西部劇。

 共通点はやはり多い。

  • 主人公たちが列車強盗を行う。
  • 鉄道会社がガードマンを雇い、主人公たちは追われる。
  • 主人公たちは国外逃亡をし、その先で殺される。

 しかし、いや、だからこそ、『ワイルドバンチ』と『明日に向かって撃て!』は真逆のテイストの映画になっている。

 『ワイルドバンチ』はバイオレンスをこれでもかこれでもかと盛り込み、従来の西部劇を過去のものにした。対して、『明日に向かって撃て!』は極めてバイオレンスに乏しい。当初、映画会社からは主人公たちに敵と戦わせろと注文がついたほどだ。

 それゆえに追跡者たちの性格付けも全く異なる。『ワイルドバンチ』では主人公たちのライバルとして描かれていて、冒頭で交戦したうえに、中盤で撃退もした。メンバーには主人公の旧友もいて、死刑を逃れたいごろつきの集まりとして描かれていた。『明日に向かって撃て!』では、彼らは正体不明の超人集団として遠目から見られるだけで、観客は最後まで彼らの人間らしさを垣間見ることはない。主人公たちはひたすら逃げるしかなくて、時代の波という得体のしれない恐怖を感じることになる。

 保安隊から逃げるシークエンスは30分近くあるが、主人公たちのピンチ度合いが仲間と馬の喪失によって視覚的に表現されているところに注目したい。『ジョーズ』の樽、『十二人の怒れる男』の投票のように、形勢を示す体力ゲージの存在は長期戦では非常に重要な気がする。

 そして、一番大事なところだが、『ワイルドバンチ』の主人公たちは5,6人ほどの集団だったのに対して、『明日に向かって撃て!』は実在したブッチ・キャシディザ・サンダンス・キッドの二人に焦点を絞っている。

 サンダンス・キッドは早撃ちのガンマンとして知られていて、映画の冒頭でその実力を示す。だが、壁の穴ギャングの親分は彼の隣にいるブッチ・キャシディの方で、彼は頭が良いイケメンだ。サンダンス・キッドにはエッタ・プレイスという恋人がいるが、彼女はキャシディにも惹かれている。それでもキッドはキャシディのことを切れ者だと信頼している。意外にも、仲良しコンビには奪い合う異性が必要らしい。『天元突破グレンラガン』しかり『花とアリス』しかり。

 二人は逃亡劇の中でパートナーの欠点を知っていく。

 保安隊によって、崖に追い詰められた二人。崖の下の激流に飛び込むしか逃げるすべはない。しかし、飛び込むより戦うと主張するサンダンス・キッド。実は彼は泳げないのだ。それを知ったキャシディは大笑い。あんな激流の中じゃ誰だって泳げないと、二人は思い切って飛び降りる。

 なんとか生き延びた二人は、エッタを伴いボリビアに向かう。キャシディはかねてより、ボリビアには金銀財宝があると話していた。しかし、たどり着いた先は、寂れた寒村。とても富がありそうには見えない。しかも、キャシディとエッタはスペイン語を話せると言っていたはずなのに、どうやらそれは嘘だったらしい。スペイン語を勉強し、カンペを読みながら強盗に励む三人なのであった。その上、キャシディとキッドが山賊に襲われたピンチの場面で、キャシディが人を撃ったことがないことが判明する。

 追い詰められれば追い詰められるだけ、カッコいい二人のカッコ悪いところがどんどん露わになっていく。それでも二人の友情は揺るがない。

 軍隊に包囲された二人。絶体絶命のピンチの中で、キャシディは「次はオーストラリアだ。オーストラリアの良いところは英語が通じることだ」なんて嘯く。そして、二人は建物を飛び出し、銃を撃つ。ここで映像は止まり、映画は終わる。

 コミカルな二人の性格のおかげで、この映画はアメリカン・ニューシネマの代表作とされながら、暗さは全くない。試写の際、映画館が爆笑の渦に包まれたので、監督は青ざめて笑える部分を急いで削ったというエピソードがあるくらいだ。

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アメリカ映画ベスト100制覇への道:その69 真夜中のカーボーイ

 お金持ちの婦人のヒモになろうと思ったら~、詐欺に遭い~ました~。チクショー!

 

 『真夜中のカーボーイ』は1969年の映画。監督はジョン・シュレジンジャー、脚本はウォルド・ソルト。主演はジョン・ヴォイトダスティン・ホフマンアカデミー賞は作品賞・監督賞・脚色賞を受賞。

 

 「1969年」という文字を見れば、アメリカン・ニューシネマかな?と予想はつくが、まさにその典型例のような映画。

  • 主人公は罪を犯し
  • そのためにどこにも居場所がなく
  • 最後に悲惨な結末を迎える

 以上の三要素をきっちり押さえている。

 これまでアメリカン・ニューシネマは、『俺たちに明日はない』『卒業』『イージー・ライダー』『タクシードライバー』『ワイルドバンチ』を観てきた。

 『真夜中のカーボーイ』というからには、西部劇なのかな?と思いきや全然西部劇ではない。主人公がカウボーイチックな格好をしているだけで、舞台は現代のニューヨークだ。(「カウボーイ」ではなく「カーボーイ」なのもそれを受けてのことだそうな。)

 主人公が犯す罪とは、財産もないくせに真面目に働こうとしない罪である。彼はイケメンの自分がニューヨークに行けば、女性が自分を買ってくれると思って上京する。「え~、そんなパラダイスがこの世にあるのか?」と疑いながら映画を見ていくと、主人公は見事にお色気ムンムンな妙齢の女性と事を致すことに成功する。が、逆にお金を要求される。人生はそんなに甘くなかったのである。だが、たった一回の失敗で絶望するわけにはいかない。彼はなおも幸せなヒモライフを夢見るが、今度は詐欺に遭い、金を失い、住処を失う。そこで詐欺師と再会し、不道徳な共同生活が始まる。

 結局、主人公は最終的に「真面目に働くのが一番だぜ」という結論に至る(この時にカウボーイファッションもやめる)のであるが、時すでにお寿司。相棒の詐欺師は病死してしまう。

 真面目にコツコツ働く。これができないことは罪なようです。『タクシードライバー』を除いて、これまで観てきたアメリカン・ニューシネマの罪は仕事と結びついている。アメリカン・ニューシネマはチャップリンの『モダン・タイムス』の延長線上にあったのかもしれない。

 真面目に働かない人間の前には二つの道がある。一つは強盗(=殺人)。もう一つは、現実逃避して快楽に耽ることである。前者パターンが『俺たちに明日はない』『ワイルドバンチ』『真夜中のカーボーイ』であり、後者パターンが『卒業』『イージー・ライダー』である。

 ただし、前者と後者は、本当はひとつづきのものだと考えた方がよいだろう。『卒業』の二人も親元から離れた後、困窮して罪を犯す可能性がなくもないし、『イージー・ライダー』の二人も殺す前に殺されただけかもしれない。逆に、『俺たちに明日はない』と『ワイルドバンチ』の面々にとっては、奪うこと自体が快楽だ。

 そして、『真夜中のカーボーイ』はまさに「セックスでお金を稼げたらいいなあ!」という現実逃避的な男の夢に挑み、敗れ、強盗殺人に至るプロセスを描いた物語なのである。

 快楽としての強盗殺人を快楽と強盗殺人に分離したことによって、快楽(セックス)を重点的に描くことが可能になる。そのおかげで、『真夜中のカーボーイ』は全体的にエッチッチーな映画となっており、これが魅力の一つであることは間違いない(ダスティン・ホフマンとの友情のプラトニックさだって、これがあるから際立つのだし)。

 アメリカではヘイズ・コードの廃止に伴い、1968年に新たなレイティングシステムが導入された。現在のG,PG,PG-13,NC-17の原型だ。当初、『真夜中のカーボーイ』はNC-17に相当する成人映画とされたそうな。アカデミー賞の受賞を受けてか、現在ではR(保護者同伴なら17歳未満でも見てもよい)とされている。

 1969年は、デンマークでハードコアポルノが解禁された年で、これを受けて西側諸国でもポルノが広まっていくのだとか。これに先立って、アンディ・ウォーホル*1がエロティックなアート映画『ブルー・ムービー』を発表し、直後にアメリカ・アダルト映画協会が設立される。ここからの15年間をポルノの黄金時代と呼ぶらしい。この間に成人映画館が隆盛*2。代表的な作品の一つに『ディープ・スロート*3がある。

 同じく1969年に日本で家庭用ビデオテープレコーダーが市販される。当時販売されたソフトの9割がポルノ映画だったのだとか。アダルトビデオの普及によって、ポルノの黄金時代は幕を閉じることになる。

 『真夜中のカーボーイ』はただエッチなのではない。そのエッチさは時代を象徴しているのである。

ヘイズ・コード - Wikipedia

映画のレイティングシステム - Wikipedia

ポルノ映画 - Wikipedia

ポルノの黄金時代 - Wikipedia

アダルトビデオの歴史 - Wikipedia

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*1:ウォーホルは『真夜中のカーボーイ』に出演する予定だった。

*2:1976年公開の『タクシードライバー』でトラヴィスが女性をデートに連れて行ったのが成人映画館だったことを思い出されたい。

*3:大統領の陰謀』のディープ・スロートの由来はこの映画。

アメリカ映画ベスト100制覇への道:その68 ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディー

 大統領を揶揄する劇を絶賛公演中の役者がホワイトハウスに呼ばれた。

 

 『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディー』は1942年の映画。監督はマイケル・カーティス、脚本はロバート・バックナーとエドモンド・ジョセフ(エプスタイン兄弟がリライトした)。主演のジェームズ・キャグニーアカデミー賞に輝く。

 

 芸術分野で初めて議会名誉黄金勲章を受け取り、「ブロードウェイを所有した男」とも言われたジョージ・マイケル・コーハンの自伝を映画化した(?)作品。(そんなにすごい人なのに日本語版ウィキペディアには記事がない謎。)

 ただし、ハリウッド映画の宿命として、史実に忠実ではない。最も分かりやすいのが、コーハンの妻として登場するメアリーは実在する人物ではないという事実。バツイチのコーハンが妻を映画に出すことを許さなかったとかなんとか。

 


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 『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディー』は戦意・愛国心高揚映画の代表作なんだそうな。しかし、『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディー』に直接的な戦闘描写はない。『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディー』の何が愛国心を高揚させるのか? それを考えてみたい。

 一つのポイントは、ジョージ・M・コーハンが低い身分から成り上がった成功者だということだろう。コーハンは芸人の夫婦のもとに生まれ、芸人として育った。当時は芸人という職業があまり良く思われていない時代だったが、コーハンは幼い頃から才覚を発揮してブロードウェイの大物へと育っていく。最終的には議会から表彰されるという名誉を受け、大統領と会談するに至る。

 たいていの社会では低い身分の人のほうが多いはずだ。だから、社会の底辺でも実力があれば大統領から認めてもらえる国だと観客に見せれば、より多くの人が愛国心を刺激されるに違いない。

 ただ、『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディー』では、差別みたいなものは特に強調されていない。

 そうなると、一つ問題が生じるはずだ。幼い頃から才覚を発揮していたコーハンの人生には、これといった挫折がないのである。もちろん、劇団をクビになったり、家族から一時離れたりといった、上向きでない時もあったが、映画のストーリーとしては若干弱めである。

 ここでもう一つのポイントとなるのが、コーハンが模範的アメリカ人だということだ。

 人の人生は大きく分けると以下の三つの要素で構成される。

  • 家族
  • 仕事
  • 結婚

 今どきは結婚しない人も多いが、少なくとも1942年の当時は、世の中の大多数にとって上の三要素が人生の重大事だったはずだ。

 家族を愛し、妻を愛し、仕事を愛し、社会に貢献する。これこそが(国家にとっての)模範的な国民と言えそうである。家族は社会の最小単位でもある。

 『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディー』で描かれるコーハンの人生にとって、家族・仕事・結婚は密接不可分だ。彼にとって家族はビジネスパートナーでもあるし、妻へ捧げた歌がコーハンの代表曲にもなっている。

 それゆえに、妻を芸人にすることができなかったこと、家族の芸人引退、家族の死が挫折としてコーハンの人生に影を落とす。

 成り上がりの人生を描こうと思ったら、ついつい仕事にフォーカスを当てたくなってしまう。しかし、『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディー』の本質は、家族の物語だ。だからこそ、順風満帆なコーハンの人生がじんわり味わい深く感じられるのであるし、戦意が高揚させられるのだ。

 しかも、コーハンの作った歌は軍歌として愛されてもいる。『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディー』を超える戦意・愛国心高揚映画を作るのはなかなか難しそうである。

 

 ……どうでもいいけど、私は家族を大切にしない系映画の方が好きかもしれない。

 

 余談だが、アメリカ映画ベスト100で未見なのは残り11作品。その65の『モダン・タイムス』からどの配信サイトでも観られないので、TSUTAYA DISCUSでDVDを借りている。

 本当に多様な映画を見ようと思ったらTSUTAYA DISCAS一択だ。DVDなのでオーディオ・コメンタリーが付いていることもある点も、動画配信サービスにはない魅力。『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディー』は意外に付録が充実していた。

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