たぬきのためふんば

ここにはめたたぬきが糞をしにきます。

『オッペンハイマー』を観た

 『オッペンハイマー』は2023年の映画*1。監督・脚本はクリストファー・ノーラン。主演はキリアン・マーフィ―。アカデミー賞は作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞、撮影賞、編集賞、作曲賞を受賞。

ビッグプロジェクトもの

 タイトルにもなっている主人公のJ・ロバート・オッペンハイマーは、原子爆弾の開発チームのリーダー。原爆の父である。

 したがって、この映画は必然的にビッグプロジェクトものとなる。ビッグプロジェクトものの映画といえば、『戦場にかける橋』が筆頭に挙げられるが、ほかにも『イミテーション・ゲーム』などがある。*2

 ビッグプロジェクトに欠かせない要素としては、言うまでもなく、達成すべきビッグなプロジェクトがある。通常、一人の力で達成できるものはビッグなプロジェクトとは言わないから、仲間も必要だ。

 加えて、プロジェクトを達成するために必要なリソースが揃ったら、あとは完成を待つだけとなるが、それではドラマが生まれない。したがって、プロジェクトの成功を阻止しようとするライバルもかなり重要な要素となる。

 ついでにいえば、プロジェクトの進行度合いを示すゲージのようなものもあるとなお良い。特に、今回の映画で作ろうとしているのは、いまだかつて作られたことのない爆弾だ。巨大な橋と違って、できあがっていく様子が目に見えるものではない。代わりに何で進捗状況を示すのか、は地味に映画のクオリティに直結するポイントかもしれない。

 ここらへんは基本なので、名匠クリストファー・ノーランなら当然に押さえている。この時点で面白いかつまらないかでいえば、面白い映画となることがほぼ確定している。

 問題は、面白いのさらにその先へ行けるかどうかだ。

プロジェクトの持つ意味

 ビッグプロジェクト系映画が成立すれば、観客は必ず次のような感情を覚えることになる。

「ビッグなプロジェクトを達成した! やったー!」

 名作と言われるには、ここにひとつまみのスパイスを加えることが必要だ。そのために有害又は不毛な目標を設定するという手法が存在する。

 『戦場にかける橋』では、主人公は敵軍(日本軍)のために橋を作る。敵軍を利するわけだから、味方にとっては有害な目標だ。プロジェクトを達成する喜びは、純粋なものではなくなる。「本当にプロジェクトを達成してよいのか?(よかったのか?)」という疑念が混じることになる。これが深い味わいを生む。

 『イミテーション・ゲーム』でも、せっかくエニグマの解読を達成したのに、あえて仲間を見殺しにするエピソードが挿入される。功績も口外禁止で、チューリングは全然関係ない罪(同性愛者であるという罪)で惨めな死に追いやられてしまう。

 この手法を採用すると、主人公はビッグプロジェクトを達成した功労者であると同時に、罪人となる。矛盾があり、がある。いずれもエンターテイメントにとっては重要な要素だ。映画はぐっと名作に近づいていく。

 『オッペンハイマー』でも、プロジェクトの達成は日本の市民の虐殺を意味し、人類が自らの力で滅亡する可能性の誕生を意味する。間違いなく有害な目標である(もちろん見方によって様々な評価がありうるが、あらゆる評価はそういうものである)。しかも、社会へのインパクトでいえば、これ以上に大きなものはそうそうない。

 つまり、オッペンハイマーという題材はこの上なく魅力的なのだが、そこにはリスクもある。センシティブな問題に触れることになるので、生半可な気持ちで取り扱うとやけどを負うことになる。

法廷もの

 その主題の重大さゆえに、『オッペンハイマー』はプロジェクト達成からが長い。おそらく3時間のうち1時間が、達成後に割り当てられている。

 戦後、オッペンハイマーは情報漏洩を疑われ、聴聞を受けることになる。これは非公式の裁判のようなもので、結果次第でオッペンハイマーの研究者生命は絶たれることになる。つまり、『オッペンハイマー』は2/3がビッグプロジェクトもの、1/3が法廷ものの様相を呈している。

 もちろん、ただ映画のテイストが変わるだけではない。ビッグプロジェクトパートで発生した仲間とライバルの要素が、法廷ものパートに効いてくるのだ。

 最終的に、オッペンハイマーは勝利を収める。一度公職を追放されるものの、彼を追い落としたストローズもまた後に屈辱を味わい、一方でオッペンハイマーの名誉は回復されるのだ。

 そんなわけで本作は、3時間でビッグプロジェクトものと法廷ものの二つを楽しめるお得作品となっている。

時間軸シャッフル

 とはいえ、ここで一つの懸念が生まれる。

 外形上、法廷パートの焦点は、オッペンハイマー個人の処遇に当たることになる。せっかく核兵器という人類レベルで重要なモチーフについて描いたのに、一個人の問題に閉じていく構造でよいのか?

 これに対するアンサーとしては、「法廷パートもまた『核兵器とはなんぞや』を描くために存在する」というものが考えられるし、『オッペンハイマー』もそのように作られていると思われる。だからオッペンハイマーが政治闘争に勝つか負けるかなど本来的にはどうだっていい問題なのだ。

 ビッグプロジェクトパートでは、原爆というガジェットそれ自体が描かれる。法廷パートでは、ガジェットを取り巻く人々の思惑が描かれる。核兵器を推進するのか拒絶するのか。いかにして自己正当化するのか。何を、誰を恐れているのか。本当の根源にあるものはなんなのか……。(この中に、核兵器が使われるとどのようなことが起きるのかは入っていない。『オッペンハイマー』への批判がその点に集中することは容易に想像できる。この映画が何を描こうとしたかを重視するか否かによって見解は分かれるだろう。)

 言うまでもなく、この映画の本題は法廷パートにある。したがって、ビッグプロジェクトパートは法廷パートに内包されることとなる。オッペンハイマーが原爆を作るまでの過程は、聴聞での陳述の内容なのである。

 ここにまた別の視点、オッペンハイマーが放逐された後のストローズの視点も時間軸を越えて混じってくるから映画はかなり複雑になる。

 特に序盤において、映画の筋を追いきれず、観客はかなりストレスフルな状況に置かれる。あまりのストレスに、私は眠りに落ちた。睡眠不足が祟ったせいか、2回観たけど2回とも寝た。でも身体が睡眠を求めているなら寝ることは良いことだ。むしろ普段は昼寝もろくにできないのが悩みなので、これは映画の素晴らしい効能とさえいえる。

 それはともかく、初見の序盤は脳みそをかき回されるような感覚で混乱する。後半あたりからだんだんと状況が整理されてきて落ち着いてくる。このあたり、つまりは時間軸をシャッフルするという手法を肯定的に捉えるか、否定的に捉えるかも人によって見解が分かれるところかもしれない。

 私は初見では悪印象だったのだが(分かりやすい方が一回で理解できてお得だから!)、2回目はさすがに理解できたのでこれも悪くないと思った。というか、時間軸シャッフルのおかげで分かりやすくなっている面もあることに気付いた(気がする)。それに、混沌としている間に原爆の制作が進んでいって、原爆完成の直前ぐらいからだんだんと物事がクリアになっていく感覚、これぞまさにオッペンハイマーが体験した世界なのではないか。いや実際はそんなんじゃなかっただろうけど、少なくとも、そういう妄想をする余地はある。

 

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*1:日本公開は2024/3/29

*2:近いものとしては『カメラを止めるな!』もあるが、あれは即興的なのでミッション・インポッシブルに近いかもしれない。『風立ちぬ』はプロジェクトが先立つ物語ではないから少し違う気がする。

◯んちだいずかん

 うずまき、いっぽん、びちびち。

 

 世の中にはいろいろな◯んちがある。

 

 一休さんは◯んちが得意。

 

 今日も殿様に無理難題をふっかけられた。

 

「この屏風に描かれた虎さんを捕まえてくれないか」

 

 ぽく、ぽく、ぽく。

 

 

 

 ちーん。

 

 

 

 一休さんの◯んちに殿様も開いた口が塞がらなかった。

 

"Then please release the tiger from the folding screen."

 

 殿様は屏風を捨てた。

 

 翌日、一休さんが橋を渡ろうとすると、立て看板にこう書いてあった。

 

「このはしわたるべからず」

 

 ぽく、ぽく、ぽく。

 

 

 

 ちーん。

 

 

 

 一休さんは◯んちを披露した。

 

"I am walking on ◯it. I am not walking on the bridge."

 

 その後、一休さんを見たものはいない。

 

 一休さんのほかには誰も橋を渡ることはできなかったから。

朝日新聞とレザボア・ドッグスと流れない便器

今週のお題「練習していること」

 

 日経電子版の無料体験期間が終わったので、朝日新聞デジタルの無料体験をしている。日経と違って朝日は一ヶ月しか無料期間がない。ケチである。

 日経と朝日は全く毛色が違う。日経は当然ながら経済の記事が多いのだが、朝日は国内政治とか社会の記事が多い。メインとなる報道の対象が異なるわけだ。この違いが、報道の仕方の差異まで生み出している。日経は物事をマクロで捉えようとするのに対し、朝日は物事をミクロで捉えようとする。日経は現象に注目するのに対し、朝日は人間に注目する。

 ……という印象を覚えた。私は日経の方が好きである。

 

 『レザボア・ドッグス』を観た。クエンティン・タランティーノのデビュー作。

 宝石の強盗を画策したヤクザな男たちの作戦が失敗して裏切り者が誰なのかやんややんや喚き合う映画である。

 この映画の中で印象的な言葉がある。登場人物の一人が、仲間たちに気に入られるためにジョークを覚える場面。彼は師匠的な人物にこう言われる。

細かい部分にこだわれば説得力が増す。話の舞台は男子便所だ。便所の細部にこだわれ。手拭きは紙かドライヤーか? 個室にドアはついてるか? せっけんは液体か? 高校で使ってた粉タイプか? お湯は出るのか? 臭いか? どこかの汚いゲス野郎が使ってクソまみれなのか? なにもかも答えられるようにしろ。

 クエンティン・タランティーノ朝日新聞派だ。いや、それはどうでもいい。これは奥義だと思った。

 優れた映画は優れた構造を持っているが、同時にディテールも優れている。

 先日アカデミー賞を取った宮崎駿が『もののけ姫』のメイキングで何を語ってきたか? 藪の中を駆けるアシタカに顔を守る演技をさせたアニメーターに、アシタカはそんなやわじゃないと言っていたのではないか(うろ覚えだが)。たたらを踏む女に辛そうな表情をさせたアニメーターに、作用には反作用があるものだと語っていたのではないか(やはりうろ覚え)。どちらもストーリーには全く関係ないし、おそらく宮崎駿が修正する前のバージョンでも観客の誰も文句を言わないであろうほどの細部。そこまでの細部にこだわるから名作は生まれる。

 実写ではこの部分を役者が担う。監督や脚本は大きな枠組みを決めるのであって、最終的な細部を決定するのは役者や衣装、カメラマンえとせとらえとせとらなのである。これについて語ることから私は逃げ続けてきた。これからも逃げ続けるかもしれない。細部についてじっくり語るのは難しい(一言二言触れるのは容易だが)。

 神は細部に宿る。そのことをクエンティン・タランティーノに改めて教えられた気がする。

 

 というわけで細部について語る練習をしよう。

 

 男子便所と言えば、昨日の話である。

 私が職場の便所に入ると、個室から男が出てきた(女が出てきたら驚く)。別の部署で働いているバイト君だった。どことなく大谷翔平を想起させる雰囲気の高身長ハンサムボーイである。便所の中にはほかに誰もいなかった。

 自分が使った直後の個室に入られるのは気まずかろうと思って――いや、本当は私が気まずかったのかもしれない――私は翔平が出てきたのとは違う方の個室に入った。

 この便所には二つの個室がある。彼が出てきた個室は洋式、私が入った個室は和式の便器だった。

 多くの日本人は和式より洋式の便器を好む*1。私も御多分に漏れず、洋式の方が良かった。そこで、個室の中でベルトを外しながら聞き耳を立てた。便所のドアが開き、閉まる音がする。おそらく翔平が出ていったに違いない。だが、第三者が入ってきた可能性もある。私はなおも聞き耳を立て続けた。便所の中で音を立てるものは換気扇だけだった。今、便所の中にいるのは自分だけ。そう確信が持てたところで、私は個室の扉を開けて、翔平が出てきた洋式の個室の方に移動した。

 扉を開けると、目に飛び込んできたのは水の中に浮かぶ茶色いものであった。瞬間、こみ上げる吐き気。反射的に和式の個室に逃げた。

 30年以上生きていれば、汚物が残留している便器に遭遇したことは何回もあるが、直前の使用者が判明しているというのは、しかもその使用者が顔見知りであるというのは、初めてのことだった。とてもそんなことをしそうな人物ではなかったのに……。水原一平がギャンブル中毒だったのと同じくらいの衝撃である。

 いや、おそらく翔平とて故意に排泄物を残したわけではあるまい。狸ではないのだから。もしなんらかの目的を持って行った行為(たとえば自己の存在証明)だとすれば、むしろ便器の中に排泄しただけまとも……と考えることができるかもしれない。が、常識的に考えれば、これは事故である可能性が高い。翔平は流したつもりだったのに、流れていなかったのだ。

 というのも、翔平が使ったトイレはスイッチが半壊していて、ちょうど上手い具合に押さないと水が流れないのである。もちろん水が流れないことに気付いて何度もスイッチを押して流そうとするのが普通である。だが、100人いれば1人くらいは流れていないことに気付かなくても不思議ではない。スマホを置き忘れるような輩もいるわけだし、なにか考え事をしていると確認を忘れることはある。つまり、今回の事故は起こるべくして起こったものだと言えるし、それがたまたま翔平の身に降り掛かったにすぎない。

 こうしたアクシデントの原因を属人的な問題として捉えるか、それとも構造的な問題として捉えるか。真の問題解決のためには、後者の視点が重要ではないだろうか? たとえば、この視点なくしてはバリアフリー社会も形成しえないであろう。

 翔平は、自分がうんこを便器に残したままだったと知らない。これからも知ることはないだろう。私が教えない限りは。なんと哀れなのだろうか。おそらく、うんこ流さないマンのほとんどは、自分がうんこ流さないマンであることを知らない。恐ろしいことだ。フィードバックがない――これもまたうんこ流さないマンが生まれる構造的原因の一つである。きっとうんこ流さないウーマンもいるに違いない。それがアイドルだったら? ショックだ……。

 そんなことを考えながら、私はレバーを押す。水がすべてを洗い流す。

 扉を開けて個室を出る。洗面台でキレイキレイを付けて手を洗う。ふと不安になって、再び(私が使った方の)個室を覗く。大丈夫。流れている。

 やれやれ、今回は無事だったが、それはたまたまだ。過去に私もうんこ流さないマンになったことがあるかもしれない。

 もしかしたら、あなたの背後の便器にも――。

『葉桜の季節に君を想うということ』感想(ネタバレなし)

 『葉桜の季節に君を想うということ』を読んだ。こりゃ面白い。

 

 

 この小説は、主に五つの部品から構成されている。

  • 成瀬正虎による詐欺グループ蓬莱倶楽部の捜査
  • 麻宮さくらとの恋
  • 古谷節子が蓬莱倶楽部の一員になる過程
  • ヤクザ業界で起きた殺人事件
  • 友人(72)の娘(17)の捜索

 それぞれのストーリーは、それぞれに異なった趣がある。メインの軸である蓬莱倶楽部の捜査はスパイ物のテイストだし、麻宮さくらの話は当然ラブロマンス、古谷節子編はメインストーリーを中からの視点で描いたもの、ヤクザ編はミステリー、娘探しはお宝探し。ものすごく美化して言えば、『ルパン三世』と『めぞん一刻』と『DEATH NOTE』と『名探偵コナン』と初期『ドラゴンボール』の詰め合わせセットみたいな雰囲気である。

 Wikipediaの情報によると、この本は442ページ。ちょいと厚めだが、まあ標準的なサイズに収まっているとはいえるだろう。そこにテイストの違った五つの話が詰め込まれている。単純に5で割れば、それぞれ88ページ程度なわけだから、短編ぐらいのサイズ感になる。というわけで、テンポよく、色とりどりの物語を楽しむことができる。寿司の詰め合わせセットみたいなものである。

 しかし、この本は短編集ではない。あくまで一本の大きな物語の中で、語られることが移り変わっていくのだ。ここが肝である。つまり正確を期せば、寿司の詰め合わせセットというよりは、五種盛りの海鮮丼と形容すべきかもしれない。

 すべての話にオチがつくのは、『葉桜の季節に君を想うということ』という本の最後。「え!? 誰がヤクザを猟奇的に殺害したの!?」という興味をそそられたまま、物語は別の話題へと移行してしまう。でっかい謎があるのに、一向にそれに迫ることなく話が進んでいく。一方で、どこかでそれぞれの話が繋がっているという予感もあり、イライラはしない。むしろ気になることが増えていくから、ただ早く先を読みたくなる。焦らしに焦らしを重ねた、見事な焦らしプレイである。こうなるともはや五種盛りの海鮮丼ではなく、五目焦らし(五目ちらし*1)である。

 しかも、普通ならば、終盤に行くにつれて徐々に謎が解明されていくはずだが、この小説にはそれがない。残りのページ数が少なくなってきても、全く謎が解明される気配がないのである。だから余計に焦る。

 そして、物語はある時点を境に、五つのストーリーが一点に収束していき、急速に結末を迎える。この点が実に鮮やかであり(海鮮だけに)、『葉桜の季節に君を想うということ』が語り継がれる理由になっている。

*1:こういう補足情報を入れた方がいいのか入れない方がいいのかは悩みどころである。

こちとらいつでもFIREする構えよ

今週のお題「卒業したいもの」

 

 ふと気づくと、FIRE(Financial Independence&Retire Early)達成のための目標額が貯まっていた。

 ネットの記事を読んでいると、なぜかFIREするのには一億円が必要であるかのように書かれていることが多いが、あれは火よりも真っ赤な嘘である。FIREの基礎には4%ルールというものがあって、毎年の生活費を資産の4%以内に抑えれば資産が30年後になっても尽きていない確率が極めて高いというアメリカにおける研究結果を参考にしている。これを言い換えれば、「自分の生活費の25倍の資産があれば仕事辞めちゃってもいいんじゃね?」ということになるというわけだ。

 そして、『FIRE 最強のリタイア術ーー最速でお金から自由になれる究極メソッド』という本では、さらに現金クッションなるもので安全を取るように提唱している(私の記憶では)。

 ともかくそういうわけで私は私なりに考えて目標額を設定していたわけであるが、予定ではもう2,3年後に達成するはずだった。それが幸か不幸か、ここ最近のブラック企業生活*1のおかげかはたまた株高のおかげか、想定外のスピードで目標達成を果たしてしまったという次第である。

 

 というわけで、私がさっさと卒業したいのは会社である。

 もう十分な金はある(しかも退職金という名のボーナス、いや、給与の後払いもある。ますます私の将来は安泰である)のだからさっさとやめてしまえばいいのだが、そうはいってもなんだかんだで愛着はある。もちろん毎年毎年仲の良い人々が辞めていくのを見送る寂しさも味わっているが、彼ら彼女らは転職をするのが常であって「プー太郎になります」などというものはいない。私が先陣を切ることはやぶさかではないのだが、上司や同僚、家族は心配するに違いない。心配するだけならいいが、やかましく口出ししてくるに違いない。それは非常に煩わしい。なんかこう、周囲の人間を黙らせる素敵ビジョンが欲しい。

 そう、私には退職後のビジョン(=ジワタネホ)がない。だから、毎晩毎晩(土日除く。)「なんで睡眠時間(=命)を削って働いているんだ?」と思いながら生きているわけだが、一歩踏み出す気にもなれない。ずっと一日中家に引きこもって映画(∋『ショーシャンクの空に』)を見続ける生活よりは、今の生活(=囚人生活)のほうがいくぶんかマシである可能性がゼロではない。いや、限りなくゼロに近いかもしれない。。。

 というわけで、もし仕事がなかったらやりたいことリストを作成しているわけだが、今のところ

・新聞をじっくり読む

・平日の舞台公演とかを観に行く

・オフシーズンに旅行する

しかない。これがいい感じに貯まったら、あるいは会社のブラック度が耐えられないレベルに達したら、それか責任あるポジションにされそうな年齢になったら、はたまた良い転職先でも見つかったら、または元手ゼロで始められる良い感じのビジネスアイデアを思いついたら、晴れて卒業とあいなるのかもしれない。これだけの地雷がありながら私が雇用され続けてくれているのは会社にとって奇跡だ。感謝せえよ? 仏に。(私はどちらかといえば仏教が好きなのである。)

 

 ……ということを考えていったときに、はたと気付いた。これからの私が会社で働くことで得るものは遊ぶ金以外のなにものでもない。これからは給与を全部浪費してもいいんだ! 値段を理由に何かを諦める必要がない。なんたって、どんだけ安く見積もっても年間百万を超える遊ぶ金が入ってくるのだから。

「フッフッフッ……これからはステーキだって蟹だってなんだって買えるぞ……」

 そう呟きながら、一週間の食材の買い出しに行った。

 気付けば、私は一番お買い得な野菜を探していた。

「大根一本180円かあ……ちと高いなぁ……」(私は大根の底値は100円だと知っているのだ。)

などと考えている。「贅沢していいんだぞ」とどれだけ働きかけても、抗えない。グラム200円を超える牛肉なんて、とうてい買う気になれない。心が拒んでいる。「べつに牛肉が豚肉や鶏肉より美味しいわけじゃねーしなあ……」とどうしても考えてしまう。「蟹は食うのが大変すぎる」と考えてしまう。

 そうか……私は贅沢よりもお金の節約が好きなのか……。

 かろうじて、納豆の一番高いやつを買った。いつもの3パック56円ぐらいのやつに対して、2パック170円ぐらい。たか……たかすぎる……。でも114円しか贅沢してない。納豆は美味しい。作るのも後片付けも簡単。納豆は神。いや、仏。毘盧遮那仏螺髪。(「どちらかといえば仏教が好き」と書いた手前、神という言葉には敏感にならざるを得ないのである。)

*1:2月は日数も少なく休日も多くしかもコロナで数日休んでいたのに時間外労働が50時間を超えていた。異常だ。

『あの頃、乃木坂にいた』写真集を買うということは、未来を信じるということ

 『あの頃、乃木坂にいた』を買った。これまでの経験から、写真集を買っても虚しいだけだと思っていたのだが、ついムラムラして買ってしまった。

 この本は、乃木坂46五期生の写真集である。価格は2,182円(税抜き)。今年の2月20日に発売された。

 オリコン週間写真集ランキングによると、2/19~2/25で86,883部*1、2/26~3/3で10,661部*2を売り上げたようである。つまり現時点で97,544部を売り上げており、212,841,008円の収入を生んでいるということになる。

 仮に被写体たるアイドルの取り分を5%としよう*3。その場合、五期生に配分される印税は、10,642,050.4円となる。これは五期生全員での金額であるから、一人あたりにすると967,459.13円となる。仮に累計で20万部近くまで積み増すとしても、メンバーにしてみれば200万程度の収入しか入らないことになる。まあ、ただ写真に撮られるだけで200万円もらえるなら良い仕事といえるだろうが。

 写真に撮られるだけで2億円もの富を生み出すなんて、アイドルとはすごいものである。2億円あれば一生食っていける。だが一方で、アイドルとは原材料のようなもので、企画をして、彼女たちにメイクをして、衣装を着せて、撮影場所を確保して、輸送して、上手い具合に写真を撮って、冊子にして、また全国の書店に輸送して、プロモーションをして……といった一連の企業活動が付加価値を生んでいるのだということを上記の数字が示している。

 

 写真集には271枚の写真が掲載されている(表紙、カバー裏を除く)。

 ここで最もシンプルな(=つまらない)写真集を想像してみよう。そこには全く同じ写真が271枚掲載されている。

 これの反対の写真集こそが面白い写真集であるといえそうだ。一言で言うならば、一枚一枚が異なった印象を与えるべきである。写真集は。(倒置法)

 では、いかにして271枚もある写真にそれぞれの色を付けているのだろうか?

 写真集の構成要素は以下のとおり。

  • モデル
  • ポーズ
  • シチュエーション(背景)
  • その他(ページごとの構成など)

 今回、モデルは11人いる。被写体が一人だけの通常の写真集に比べてかなり有利だ。組み合わせは2,047通りある(11C1+11C2+……)。なるほど、それぞれの写真に映るメンバーの組み合わせを変えていけば、271をはるかに超えるパターンを生み出すことができる。もちろん、このうち、10人や9人のショットは採用されないと考えてよさそうだが(写っていないメンバーがハブられている感じがするから)、それでも271を超えるパターンを生み出すことは容易だ。

 では、そのような手法で写真集に変化がもたらされているのだろうか?

 実際、何人のショットが何枚あるのだろうか。数えてみた。

0人:1枚(以下、単位は省略)

1:103

2:63

3:32

4:34

5:13

6:5

7:2

8:2

9:2

10:1

11:12

 数え方としては背景と化しているメンバーは人数に入れていない。おおよその基準としては、顔が写っていないとか、誰かの後ろに隠れているとか。ただし、顔がメインではない写真に関してはこの限りではない。その他にもどの程度のピンボケまで許容するかなど、数え方には多分に主観が入り込む余地がある。したがって、数える人によっては、別の結果が出るだろう。

 10人や9人の写真があるのは意外だった。10人に関しては全員の集合写真で1人*4が完全に別のメンバー*5の後ろに隠れてしまった写真だったのだが(たぶん全員が写っている写真がなかったのであろう)、9人の写真はなぜ9人で良しとしたか若干謎である*6。とはいえ、やはり過半数に当たる6人を超えると枚数が一気に少なくなる。

 本題に戻ると、この配分から考えるに、写真に映るメンバーの組み合わせによって271のパターンを生み出しているわけではないことが分かる。なんせ11パターンしかないワンショットが103枚もあるのだから。

 というわけで、変化は被写体の組み合わせによって付けられているわけではないようである。案の定だが。

 

 ポーズについては、以前書いたように大きく分けると三つのパターンが存在するように思われる。

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 三つしかパターンがないのだから、ポーズだけで変化を付けることは困難である。

 

 では、シチュエーションは何パターンあるのだろうか。撮影場所をカウントしてみよう。

  1. ちょっと緑多めの路上
  2. 駄菓子屋
  3. 公園
  4. 茶店
  5. バス
  6. 体育館
  7. キャンプ場
  8. 工作室的な部屋
  9. ホテル
  10. 牧場
  11. 旅館
  12. プール
  13. 電車
  14. 海岸
  15. 写真スタジオ

 15の撮影場所がある。271枚の写真があるから、平均して一シチュエーションあたり18.07枚。かなり少ないことが分かる。

 しかも、シチュエーションが変われば、コスチュームも変わる。たとえばホテルならパジャマ姿だが、旅館なら浴衣姿が見られるという仕組みだ。

 また、屋外か屋内かによって光の具合も変わってくる。屋外であれば昼か夜かでも印象は異なってくる。その他に、プールのようにメンバーを濡らすことで異なった印象を与えることが可能な、特殊フィールドも存在する。

 というわけで、どうやら写真集の肝はシチュエーションにあるらしいことが分かる。シチュエーションの中で変化をつけるのが、被写体の組み合わせだったりポーズだったりするに違いない。

 当たり前のことを延々検討した結果、当たり前の結論に至ることに成功した。

 

 さて、上記のシチュエーションから考えてみるに、『あの頃、乃木坂にいた』のコンセプトは、デビュー2年めの彼女たちのいずれ失われるであろうフレッシュさを記録に残すことに違いない。一言で言うなら、青春。

 これに最も近いものが卒業アルバム。今回の写真集は卒業アルバム的なものを目指しながらも、もう少しプライベートに迫る。そんな感じのイメージ。メンバーには修学旅行という説明がなされたようだ*7

 それゆえにタイトルは『あの頃、乃木坂にいた』。これは五期生たちが卒業をした後、己の青春時代を振り返るための写真集なのである。

 

 ところで、人間にとって「過去を思い出すこと」はそれ自体が大きな喜びである。より広い表現をすれば、「過去の再現」は人間にとって非常に重要な営みだと言っていい。

 思い出話に花を咲かせること、伝承すること、物語を作ること、文字を書くこと、日記を残すこと、絵を描くこと、像を彫ること、楽譜を読んで演奏すること、録音すること、動画を撮ること、墓標を立てること、記念碑を立てること、遺跡を掘ること、タイムマシンに乗って過去へ行くこと……これらすべてが過去の再現という営みである。人間の活動(特にエンターテイメント系の活動)の大半は、過去の再現を志向している。もちろん写真もその一つだ。

 2024年の我々にとって、『あの頃、乃木坂にいた』は、今の五期生たちを撮ったもののように思える。だから、この写真集の価値は「可愛い乃木坂46五期生ちゃんたちの写真がたくさん載ってるよ。うっほほーい」だと思い込んでしまう。水着ショットがあるかどうか、おっぱいが大きいかどうか、そんなことばかり気にしてしまう。おそらくだいたいの写真集はそうなのだ。

 しかし、それは写真の本質的な価値ではない。写真にとって最も重要な機能は、過去を残すことであり、過去を想起させることなのだ。写真の本当の価値は年月が経つうちに明らかになっていく。

 『あの頃、乃木坂にいた』は擬似的に懐かしさを感じさせるように構成されているものの、それはあくまで擬似的にでしかない。何年か経って今が過去になったとき、熟成された『あの頃、乃木坂にいた』は真の味わいを帯びることになる。その頃に、五期生の過去を振り返りたいと思えるかどうか?

 この写真集のタイトルを付けた人(たぶん秋元康だろう)は、その点を理解している。そして、五期生たちの未来を信じているに違いない。彼女たちが数年後には忘れ去られているような存在ではないと。十数年、あるいは数十年経っても、この写真集を買った人々は彼女たちのことを思い出したくなると。

 なるほど、写真集を買うことは株を買うようなものかもしれない。数年後、数十年後に見返したいと思えるなら、その写真集は買いである。

レーズンが最高値を記録した新聞記事が面白いリーズン

 最近、ブログの更新頻度が下がっている。ネタが思いつかないからである。これではいかんと思い、ブログの本旨に帰ろうと思う。つまり、日々思うことについて書いていくのだ。

 

 今年に入ってから新聞を熱心に読んでいる。私はケチなので、まずお試しで無料購読できるサービスを一通り試す予定だ。今は日本経済新聞を購読している。

 読んでみて分かったこと。新聞は面白い。

 実家を出てから新聞は買ってこなかったし、実家にいた頃もそんなに熱心には読んでいなかった。だから、新聞に載っている情報というのはインターネットに転がっていると思い込んでいた。実際、それが間違っているとは言い難い。

 それでも新聞は面白い。読む価値がある。特に、ツイッター(あえてXとは呼ばない主義である。)で話題にならないようなニュースが面白い。

 

 たとえば、次の記事。

レーズン最高値 米・トルコ産不作/紅海混乱も影 国内卸値、製菓・製パン打撃

 有料会員専用の記事で日経電子版に登録していないと読めないので、内容を要約してみよう。

 まず、「レーズンの国内取引価格が過去最高を記録した」というのが重要な事実。

 その理由であるが、そもそもレーズンの最大の輸入先はアメリカで、2023年は輸入量の58%を占めていた。アメリカのどこでレーズンが生産されているのかというと、カリフォルニアが主産地。

 昨年の夏、カリフォルニアは気温が上がらず、ぶどうの糖度が上がるのに時間を要した。その結果、レーズンを乾燥させるタイミングが雨の多いシーズンに差し掛かってしまった。といったことがあり、生産量が減ったようだ。

 アメリカがだめなら他の国から輸入すればいいじゃない。誰もがそう思うに違いない。では、レーズンの第二の輸入先はどこなのか? トルコである。2023年は輸入の35%をトルコが占めていた。

 ところが、トルコでも生産量が激減する見込みなのだという。理由は、雨が多かったから。畑で病害が発生したり、やはり乾燥に支障を生じさせたようだ。

 結果、主要な輸入先で生産が減り、国内取引価格が上昇したというわけである。フーシ派の攻撃により紅海の航海が困難になっているからますます先行きは暗い。

 ちなみに、アメリカではナッツ類などの方が収益性が高いとして転作が進んでいるらしい。対して、トルコはリラ安もあり、近年輸入量を伸ばしているとのこと。

 以上が大雑把な記事の内容だ。

 

 うむむ……実に面白い。なぜならば、ここには物語がある。物語とは権力関係の変化だ。(日本にとっての)レーズンの王アメリカが、トルコに王座を奪われる(かもしれない)。そういう物語がここにはあるのだ。

 それでいて、色々な発見がこの記事にはある。たとえば、「レーズンは雨に弱いのか~。まあそりゃ乾燥させてるもんなあ……」とか「レーズンの主要な産地はカリフォルニアなのか~。たしかにアメリカワインといえばカリフォルニアだもんな~」とか。そう、ここには人生の伏線回収もある。

 伏線回収といえば、『ボボボーボ・ボーボボ』の有名なセリフ「レーズンのレーズンによるレーズンのためのレーーズン」はリンカーンの有名な演説のパロディであるが、澤井啓夫はレーズンといえばアメリカということを知っていたに違いない。昔の私はそんな事も知らずにゲラゲラ笑い転げていたわけである。もしかしたら100年後の人々は、たとえレーズンの産地に詳しい人でも『ボーボボ』を読んで「なぜゲティスバーグの演説?」と思う可能性がある。その頃にカリフォルニアはもうレーズンの生産をしていないかもしれないからだ。一見ナンセンスギャグを繰り返しているだけの漫画に見える『ボーボボ』の中にも現代が切り取られているのだ。……という妄想をする余白が上の記事にはある。

 ついでにいえば、「レーズンの産地はだいたい同じ緯度にあるのかもしれない」と、描かれていない物語の予想もできる。実際そうなのだ。レーズンの産地ランキングを見てみると、トルコ、アメリカ、中国、イラン、南アフリカウズベキスタン、チリ……といったメンツが並ぶ。トルコ、カリフォルニア、中国、イラン、ウズベキスタンは日本とだいたい同じ緯度にあることが分かる。南アフリカとチリは?と思うかもしれないが、意外にも南アフリカやチリは、上記の国々と赤道を挟んで対称の緯度にあるのだ。ためになったね~。ためになったよ~。

 

 新聞にはこういう物語が溢れている。しかも、ある程度の期間にわたって新聞を読んでいると、以前読んだあのニュースがここに繋がってくるのかあ……ということがある。そうなるとますますニュースは面白くなってくる。

 それでいて、インターネットの海に比べるとコンパクトにまとまっている。膨大な量のニュースの中にまぎれて「レーズン最高値」なんて見出しを見ても「あっそ……。どうでもいぃ~わ!」と思うだけで流してしまう。しかし、新聞という限られた量の中にあると、「ちょっくら読んでみますかねえ」という気になる。これがでかい。

 これらの感覚はたとえばグーグルニュースやニュースピッグスでニュースを読んでいた頃にはなかった感覚だ。新聞だから提供できるものはたしかに存在する。

 

 欠点があるとすれば、量が多すぎることだ。先に書いたことと矛盾するようだが、いくらコンパクトにまとまっているといっても、全ての記事を読もうと思うと数時間かかる。ピンとくる記事だけピックアップしても1時間以上は必要だ。こうなると平日はもう読めない。割り切って見出しを眺めることだけに徹している。

 週刊新聞があればいいのに……。

 

 新聞というと、とかく「役に立つから読め」と言われがちだが、はっきり言って役に立つものなんて極力読みたくないのが人間ではないだろうか。それに、レーズンが高値になったことを知ったからって一般の人々にはなんの役にも立たない。スーパーに並んでいるレーズンパンが高かったりレーズンの数が減ったりしている理由を知っていることがなにか金銭的な価値を生むかといえば、そんなことはない。(ビジネスチャンスを見つけて稼ぐ人はいるかもしれないが、圧倒的少数であろう。)基本的に、我々はただ時代の流れを受け入れるしかない。同じことは、トランプが共和党の候補になりそうとかウクライナがやばいとか中国の衰退が始まりつつあるとか、そういうビッグニュースにも言える。そういう意味では新聞が役に立つと言えるかどうかは微妙である。

 新聞は役に立つから読んだほうがいいのではない。新聞はただ面白いのだ。